自殺にまつわるエトセトラ

某議員が自殺した件が話題になっていますね。
いくつかの問題がごっちゃになっているので、整理して考えたい所存。

  • 何故自殺をするのか

僕は「自殺にメリットがあるから」だと思っています。
では、割とタブーっぽかった、自殺のメリットについて考察。
1.苦しみの終了
一番のポイントだと思います。ただ、苦痛が恒常化する、逃れられないという発想になるのは、「無知である(リカバリーできる自分が想像できない。若い)」「病気等で本当に恒常化している」「鬱」くらいが原因ではないでしょうか。
そこそこ人生経験がある人は、どんなに苦しいことも、多くの場合終わりがあることを知っています。ただ、苦痛を終わらせる結果失う何か(地位とか名誉とか?)に耐えられないということもあるかと思います。この辺は後で触れます。
2.情報の秘匿(身内の防衛)
死人に口無しのアレ。自分が生きていることで、仲間や家族に危険が及ぶとか、そういう事態になったら、十分メリットと言えます。戦争で尋問される前に自決するとかがそうですね。
3.名誉の保護
司直に裁かれることそのもので名誉が失われることを避ける。結果有罪が見えているので、有罪による名誉損失の回避。あるいは、その過程での自白によって名誉を失うことの回避。ということも勿論あるかと思いますが、一番大きいのは「切腹文化」なのではないかと思います。切腹文化については後述。
4.自殺原因への攻撃
いじめでの自殺で、いじめた側が社会的な制裁を受けてしまうアレです。遺書にいじめた人の名前を書くなどをするパターン。あるいは、敢えて会社で自殺したりするあれです。
5.リセット
「次の人生」なるものがあるかはわかりませんが、無いことも証明されていません。本当に嫌気がさしたときに、自分を0にできるというのは、あるいはメリットと言えるかもしれません。

こんなところでしょうか。

  • 恥の文化

日本はかつて、生命よりも名誉が重んじられていたように思います。
嘗ては流行り病やら火事やら事故であっさり死ぬなんてことが珍しくなかったので、「死に方」が重視されたということがあります。「ポックリ信仰」といって、死ぬときは苦しまず、みっともない姿にならず、家族に迷惑をかけずに死ねますようにという信仰がありましたし。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/pokkuri.htm
更に、個人主義ではなく、「家長制度」をとるような気質です。つまり、個人の恥は一人の恥ではなく、一族の恥になるわけですね。
では、一族の恥になった、あるいはなりそうなとき、どんなことが行われたか。
村の場合、「村八分」つまり村民資格を停止し、出て行くかゆるやかに死ぬかという状況にします。この辺が、集団によるいじめという悪しき因習にも、おそらく関係してくるのでしょう。集団のハウスルールで、私刑にするというアレですね。
親が殺された際に仇討ちするまで故郷に帰れないシステムも、名誉を重んじる文化の代表ですが。
武士の場合、切腹です。で、切腹したら名誉が守られます。名誉が守られないのは、獄門、つまり斬首刑になった後、晒し首になるような状態が、不名誉な死に方ですね。
司直に裁かれたときに、切腹さえもさせてもらえなさそうなときは、「もはやこれまで」と切腹することが、「美意識」としてあります。「腹掻っ捌いたんだから許してやれや」という意識も同時にあります。当時はそれが、逆に優しさだったのかもしれませんが。
この辺が、恥文化の発端だと、僕は考えています。
これがあるが故に、地位や名誉というものを、過剰に重んじる文化だけ、受け継がれたのではないかと思います。
まー、戦国時代を考えても、武田家が今川家から公家の婚姻話を持ちかけられて停戦しちゃったように、とかく日本人は権威に弱い。ロイヤルファミリーとかみんな好きですよね。あまり皇室を茶化したりしないですし。
ま、それは「正当性(正統性)」を、そういったところに預けて、絶対権力というシステムを使いまくってきたからだと思うのですが。世界大戦の頃などは顕著ですが。戦国時代でも、やれ俺は源氏の流れをくむから清和天皇の一族であるとか、そういうやつね。地方行くとわかるかもしれないですが、21世紀の今でもそれを引きずっているところは引きずっています。それを「神道とは宗教だ!」と仰る方もいるわけですね。教義はなくとも、「天皇の勅命である」が行動を規定するのであれば、それは宗教だよという話。ま、その論議は今は置いておきます。
横道に逸れまくりましたが、要は、権威、名誉が何よりも大切であるという思想が、まだ残っているよという話。みんな園遊会に行きたいし、国民栄誉賞文化勲章が欲しいんだよってこと。
あ、名誉は例えば「善行が新聞に載った!」とか、「○○で優勝した!」とかでもいいです。
ちなみにですが、こういう思想を持つ人は、あんまり謝らない印象があります。自らの不名誉を認めたがらない傾向にあるのではないかと。

  • 名誉を持つとどうなるのか?

そこそこの頻度で「自分」と「自分像」との乖離が始まります。自分が当初思っているよりも、自分が評価され続けると、次第に自分というものを誤解したり、わからなくなったりするのは、ある種仕方が無い気もします。何故なら、自分がどういった存在なのかは、結局のところ、他者性(他人の目をどう自分が捉えるか、あるいは、自分を客観的に見てどうとらえるか)による部分が大きいからですね。よく、態度の大きい有名人を「勘違いしている」などと言いますけれど、それは周囲の人の責任もありますよ。敢えて自分像を実際の自分よりも上にして、虚像に実像を合わせようと努力することで、自分を高めていく、自分追い込み型の方もいらっしゃいます。無理に高いマンションに住むとかがそうですね。
人によりますが、自分像が乖離した結果、「自分はこうあらねばならない」という強迫観念に駆られる方もいるようです。アイデンティティ化とでも言いましょうか。
「有名人」という存在は、多かれ少なかれ名誉があります。「テレビに出ている」も、一つの名誉です。
もちろん、他人の評価に大きく心を乱されない方もいらっしゃいます。

  • 名誉を失うと?

名誉の定義がされないまま名誉を語っていましたが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AA%89
僕がこれまで言ってた内容も、wikipediaにある通りですね。アイデンティティの骨組みみたいなものだと、僕は思っています。
デジタル大辞泉ではこちらhttp://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/216882/m0u/
元々あまり名誉がない方は、名誉を失うとアイデンティティを見失うように思います。
大概は、何かやっているうちにまた結果を出したりして、自他共に認める実績を手にして、小さな名誉を構築していく機会に恵まれると思います。
これが鬱などになると、いままで出来たことでも失敗してしまい、その結果心を病み、また失敗するという、悪循環に陥ります。そうなると、その苦しみからの離脱や、全て0にしたい衝動(タナトスって言っていいんですかねこれ)が、死の恐怖に勝ることもありえます。
これまで名誉を得ていた人も、何かのきっかけで一気に失うこともありえます。そのときに、他者評価をアイデンティティにしていた人は、言うなれば、100から-100に一気に転落した気になるのではないでしょうか。逆に、「これまでが過剰だったんだ」と思っていた人は、そこに対してそこまで大きな動揺はないように思います。
なかなか-100になる体験もないですが、大きく動揺することは間違いないなとは思います。動揺すると正しい判断ができずに、短絡的な思い込みで「ここは首をくくらねば……」となる可能性も否定はできません。

  • 現代における切腹=自殺?

まず、今のネットの風潮からしても、「自殺したんだから許してやれよ」感はあります。
問題が「死ね」と匿名性を利用して言ったことの是非になっていますが、そこはまた別の項で。
議員の非常識な行動についての追求は終わりました。
もし議員が存命ならば、その家族や知人まで、袋叩きにあった可能性は否定できません。
つまり、先に挙げたメリットのうちの、ほぼ全てを得たかたちになるように思います。

  • 自殺の何が問題になっているのか

聞いていると、実際に失われてしまった命というよりは、加害者意識なのでは? と思います。それと、わかりやすく「死に追いやった」=「悪」という構図に、義憤する人たちがいるのだと思います。
いじめのような明確な加害もありますが、今回のネット上で「死ね」と発言されたことに関しては、自業自得なところもあります。有名税、というと言い方はよくないですが、立場のある人は、悪いことこそ注目が集まります。「炎上マーケティング」なんて言葉があるのも、その所以でしょう。

  • 注目が集まることのメリットとデメリット

注目が集まるが故の過剰バッシングを否定するのであれば、そもそも注目が集まるが故の賞賛も否定せねばならないと、僕は思います。甘い汁だけ啜りたいなどというのは、虫のいい話です。
ただ、批判されるときは、より大きな声となって批判されるということに関しては、学校で教えてもいいレベルなのではないでしょうか。
名誉は失われるかもしれない。
あるいは、名誉を失ったとしても、自分には価値がある。
そういった準備なしに、注目を浴びる場に立つのは、危険だということです。
多くの人が匿名性に拘るのは、結局のところそのデメリットを被りたくないということも、大きな理由になっていると思います。
逆に、それがわかったうえで、自分が家族まで責められるのが嫌だったり、諸々の理由で自殺しちゃうかもしれないけど、そのリスクを被ってでも世の中に一石を投じたいという覚悟があるならば、それを誰も止めることはできないし、できるのはむしろ、自殺を思いとどませることくらいです。近くにいればの話ですが。

  • ならば、「死ね」と言っていいのか

逆に考えて、「死ね」っていうことのメリットって何でしょう?
ちょっとすっきりするくらいじゃないですかね。
例えば今回のようなときに、「品位を疑います」という批判と、「死ね」という言葉の差はどこか、みたいなところを考えてみると、「死ね」には加害性が剥き出しであるが故に、仮にそれで自殺した人が現れたときに、もしその言葉を本人が受け止めていなかったとしても、発言者は批難の的になります。つまり、デメリットです。
では、「品位を疑います」の場合はというと、僕の感覚では、発言の正当性があります。且つ、批判になっています。感情は込められながらも世間に許される書式に落とし込まれています。もちろん、「そこの地域に住んでいないのに」等の批判はあるかもしれませんが、「死ね」よりも軽いように思います。
言い方の問題ではありますが、テキストコミュニケーションにおいては、言葉遣いが全てです。言い方だとかはないので、そこで判断されます。これは、古くはCGIチャットの頃から、散々言われ続けてきたことですね。
「言っていいかどうかは、批判されていいという覚悟の問題だ」という論理は、「人を殺していいかどうかは、掴まって死刑になってもいいという覚悟の問題だ」というのと同じなので、ここでは問題にしません。
僕の定義では、デメリットが多くメリットの薄い行動は、「やるべきではない」のです。
というわけで、「死ね」という言葉はダメです。日本語は多様な表現があるので、一番安易な批判言語は、品位がないとみなされます。あ、「好き」とかは捻らずに言った方がいいですよ。直接口頭で。

  • 実は……

これを書こうと思ったときに、「恥の文化を捨てて、死体にも鞭打てば、名誉を守るための自殺のメリットがなくなるからいいんじゃね?」って話にしようかなーと思っていたのですが、よく考えてみると過剰バッシングというか、スマイリーキクチさんの問題とかあったなと思い返しまして。
最低限のルールとして、「証拠主義(本当に正しい報道か?)」「本人以外は叩かない」「問題と関係ない経歴まで根掘り葉掘り調べない」ということがあると思います。罪を憎んで人を憎まずというか。
つまり、メリットのうちの、「身内を守る」つまり「身内が批難に晒される」をなくさないと、意味がないなと思ったのです。
人は正義のためなら割と簡単に人を殺すと言います。一度手を汚してしまったら、それを正当化するために自分が正義であり続けないといけなくなるのではないでしょうか。
法はあてにならん、ジャーナリズムはあてにならんと、不満もあるでしょうが、もしその代わりを例えばネットに期待するのであれば、健全性を保つ必要があると思います。
それができたときに改めて僕は、「恥の文化を捨てて、死体にも鞭打てば、名誉を守るための自殺のメリットがなくなるからいいんじゃね?」を主張できるのではないかと思います。

  • まとめ

・自殺には「苦しみの終了」「情報の秘匿(身内の防衛)」「名誉の保護」「自殺原因への攻撃」「リセット」
の5つのメリットがある。
・自殺の根本には日本の「恥の文化」や「権威主義」がある。
・名誉の増減でアイデンティティを崩壊させる人もいる。
・有名になることには、メリットもあれば、大きなデメリットもあるので、デメリットも自覚しておきたい。
・現状、デメリットは本人だけに留まらない。ここは変えていきたいところ。
・「死ね」は言ってもデメリットだらけ。言葉を選ぼう。
・批判が批判として正しく主張できるように、まずは相手をDisる際のマナーを共有徹底しよう。