それは本当に個人の問題?

最近はいろんなところで個人の資質を責めたりするのを見かけますね。(某I師然り)
でも、嘗てはそんな「個人」すら認めず、「親の顔が見てみたい」の言葉に代表されるように、まず「教育者」あるいは「本人が所属するコミュニティ」(学校とかね)に責任を求めてたわけですな。
で、若者を怒る側、例えば近所のおっさんとかは、半分この「教育者」側だったからこそ、身内の恥というか、自分の問題として、若者を叱っていた、ということがあったんだと思います。(ただ、怒られる側にそれがうまく伝わっていなかったりしたのが問題ではあります)

で、今は「個人主義」という便利な概念が蔓延していて、一個の人格を完全に独立したものだと、みんなが思い始めている風潮があるわけですな。つまり、なんでも「自由」と引き換えに、「自己責任」を科すということ。
でも、若者って、周囲の意識が変わろうが、そう大きく変わらないと思うんですよ。
要は、知識経験がないから、誰から何をどのように貰ってインプットするかが、生来持った資質以外の部分で、大きくその人の人間性に影響を与えるわけですね。社会学的な要素というよりは、生理学的な要素が強いという感じ。

嘗ては家制度だったので、個人ではなく、その家に相応しい人間形成を、特に次期家長たる長男は求められたわけですが、今はよっぽど古い家じゃない限り、そういうことはないですね。つまり、嘗てはある種強制的に習得させられた、社会的な立ち回りや知識が、現代においては継承されないということになるわけですね。「我が家の家訓」なんて、最近じゃ聞きませんし。
これについては、もちろん弊害もあったので、一概に全肯定すべきではないですが、例えば「DV」なども問題と重なるところがあって、「躾」をしないことに対しての容認が広まってしまったという背景があるように思います。ギャン泣きする子をあやさなかったりとかね。
これも、「教わらなかった」例になるですが、若いうちにそういった「社会性」を教わっている側の意識としては、「常識」「知っていなければ恥」もっと言えば、「知っていなければ罪」に分類されるような知識・経験です。

では、責められるべきは「教わらなかった側」なのでしょうか?

「教わらなかった側」は、多くの場合「教わりたくありません」と拒否したわけではありません。
なのに責められるのは、理不尽だと僕は思いますし、「教えなかった側」が責められないのも、理不尽だと思います。
僕の感覚からすると「お前の親はそんなことも教えなかったのか!」はNGで、それがしたいなら、子供に電話でもかけさせて、子供の親に直接説教たれるのが筋だと思います。

この「教えなかった側」というのは、多くの場合「私たち」になるため、よく言われるところの「ブーメラン」に相当するわけですね。どういうことかというと、法事で集まった親戚なんかは、教育のチャンスがありますし、親戚でなかったとしても、先の「躾をしないことを容認する風潮」を容認したという負い目が、そこまで自覚的ではなくても、本能的にというか、なんとなくみんな察しているところとしてあるように思います。今はそういう風潮じゃんって思っていること自体というレベルで。
まー、大概の人は、自分の非を認めたくはないだろうし、それが「間接的」であれば尚更です。僕もそうです。

また例を挙げますが、「ゆとり」教育を受けた世代をdisることができるのは、その決定に全く参加できなかった世代だけのはずです。
結果として、その政党の指針を容認した。自分が候補者として立って変えるよう働きかけたわけでもなかったということに対する責任は、当時選挙権を持っていた誰にもあります。特に直接自分に降りかかる切実な問題ではないという判断をして、放置した、というのが大多数だと思います。それは見方を変えれば、「ネグレクト(育児放棄)」的ではないでしょうか。

そういうこともあって、僕は若い世代を責めることに抵抗がありますが、逆に上の世代を責めることに対しては躊躇いがないです。
その一番の理由は、「失敗を認めていないこと」に尽きると思います。
「人間は完璧じゃない」
そんなことはわかっているんです。意図せぬ過失だろうが、きっちり「失敗」を認めたうえで謝罪し、ではこれからどうするのかという話をするのが筋というものです。それができていない多くの老害(敢えてこう書きますが)、が何を言おうが、僕は説得力を感じません。

こういう、一個の人格を尊重しない考え方というのは、多分古いですし、例えば某I師を「個」の問題として糾弾する人々よりも、よっぽど酷いのかもしれません。(人でなく、現象として見ているという意味で)
もちろん、これまでの社会で改善されてきた部分もたくさんありますし、世界に誇れるものを築いた礎として、諸先輩方には敬意を表します。ですが、だからといって、プラマイゼロにできる問題だとは思いません。功は賞賛しますが、罪は裁かれるべきだと思います。

こういう話をすると、父などは大変けむたそうな顔をしますし、母なども「謝って何になる」とか言い始めますが、失敗を失敗と認めなければ同じ轍を踏むし、否定も肯定もされないものに対策は施されません。
ぼんやりと「間違っている」ものこそ、「間違っている」と声に出して言わねばならないと思います。

そういった願望やら諸々を踏まえまして、僕は、何かが起きたときに、自分が間接的に関与している可能性について考える想像力が、今必要なんじゃないかなと思っています。
それがきっと、先読みする力に繋がっていくと思うからです。
さきの「ゆとり教育」の観点から言えば、新入社員をどう扱えばいいかわからなかったり、教育が上手くいかなかったりというのは、そこの世代と思考のコードが断絶してしまっているからだと僕は思っています。これは、「自分には直接関係ない」と教育の問題を放置した結果、実は直接関係がありましたという、ひとつの例のように思います。
社会は、意外と些細なことで、ダイナミックに変わってしまうものです。
(例えば、Webやら携帯端末やらなどが変えたという話はよく聞くと思いますが)
別に変化を放置するなとは言いませんが、放置したことに対しては自覚的でありたいですねという話でした。

あ、もちろん教育を受けなかったとして、それを「言い訳」にするのは違うと思います。
自分のためにも、「教えていただけますか」と真摯に向き合えば、大体の人は応えてくれますし、言い訳しても何もいいことはないです。