冗談や言い過ぎが通じないとき

会話とはキャッチボールだと言われる。
キャッチボールとは、相手がキャッチできる球を投げることで成立する。
例え本人がそのつもりでも、相手が「剛速球を顔面に投げてきやがった」となれば、それは一方的な言葉であって、会話ではない。

  • 冗談について

冗談とは、言葉を言葉通りに受け取らず、そこに込められた裏の意味を伝えるということになる。冗談が通じないというのは、言葉通りに受け取ってしまうということになる。
これはいくつかパターンがあって、普段冗談を言わないような人が冗談を言うとき、その冗談は通じないことが多い。それは、その人が冗談を言うというコンテキストが共有されていないためだ。
あるいは、冗談だとわかっていても、敢えて言葉通りの意味で受け取ることで、暗に「ふざけるなよ」と伝えるパターン。
そして、そもそもコミュニケーションに冗談を考慮に入れていない人には、冗談は通じない。
では、冗談はどこで生成されるのかと考えると、子供の他愛のない嘘からなのではないかと思う。悪意のない嘘、という体験から、冗談というところに行きつくように思う。

  • 冗談が通じない人には言い過ぎも通じない

さて、「そういうつもりで言ったんじゃなかった」は、冗談だけではなく、感情に任せて放ってしまった言葉についてもそうだ。
怒りに任せて出た「帰れ!」で帰ってしまうとか、そういう感じの。
ただ、そういうのは、従順な人程そうなのではないかと想像してみる。
先生の言うことをききなさいとか、基本的に「従う」ことを子供は求められているなかで、冗談や言い過ぎが通じる人は、言葉のなかにある茶番性に気付いているんだと思う。母親が怒ったとき、このワードが出たら折れておかないと面倒になるとか、そういうことが要領としてわかっている。
一方、従順な人はなまじ従順なので、そういうことが少ないのではなかろうか。同時に、反逆の機会も少ないのではなかろうか。
「帰れ」で帰るのは、唯一、従順を維持しながらとれる反逆行動であって、普段それがとれない人ならば、反動が大きく出てしまうこともあるように思う。
更に、そこに自身の利害というか、損得勘定が入らない感覚の持ち主だとしたら、自滅をもって相手に抗議することを厭わないのではないだろうか。
そう考えると、「冗談が通じない」=「純粋」などとは言えないなぁと、ふと思ったりしたのだった。
冗談も言い過ぎもコンテキストなので、これは「国語のテストをたくさん受けましょう」みたいなのが、実は正解だったりして、それもまた洗脳的だなーと思うのだった。