「個性」という言葉は恣意的に使用される

  • あらゆるマイノリティ特性を「個性」という言葉で表現していいかどうかというのは、誰にも決められないことだと思う。(結論)

ということで、結論から書いてしまいますが、LGBTにせよ、発達障害にせよ、左利きにせよ、視力の悪さにせよ、それを何と位置付けるかは、結局個々人の中でしかないものです。思想の自由があるわけですし。逆に、社会や多数決が決めるものではないと思っています。「個性」という言葉の範疇が広いため、それほど意味を為さないという意味で。
でもって、言葉というものは恣意的に解釈されるものです。「てめえ」という乱暴な言葉の元が、「手前」という丁寧な言葉から翻ったもの、という話は耳にしたことがあるかもしれませんが、まあそんなものです。皮肉としての「個性的な人だね」なんて言い方もするわけです。それが常にポジティブな意味を帯びているものではないです。
マイノリティであることに直面したときに、いろんな状態があるかと思います。例えば、何が問題なのかが全くわからない状態、問題はわかったもののそれを受け止めらえる心の余裕がない状態、問題を呑み込んで前に進もうとする状態。その状態によって、マイノリティであることを何と呼ぶかも変わってくるように思います。完全に問題から逃げていた人が、過程として、まずはマイノリティであることを知覚するために、それを個性だと思い込もうとすることは、誰も咎められないように思います。一般化しちゃうのはよくないですけども。
と、ここまでは当事者の話。
では、マジョリティにとって、それは感心のあることなのか、という問いが出てきます。答えはNOだと思っています。関心を得ようとすると、安易な感動ポルノになってしまうということもあります。それは、マジョリティがマイノリティの付き合い方を知らないということに尽きるのだと思います。人と人なので、画一的なマニュアルがあっても問題なわけで、僕はそこに対して、圧倒的に文学が足りていないのだと思っています。マジョリティ同士でも、相手のことは大半わかりません。その推量を可能にしているのが、結局のところ文学の存在のような気がしています。なので、これからマイノリティの人々が、優良な文学を世に広めていければ、あるいはマジョリティもどう接していいのかがわかってくるのではないかと思います。ただ、今や文学は死に体だとも思っていますが。
今、パラリンピックの開催国になろうとしているに際して、国がこれまで蓋をしていた問題に対して、改善を図らなければならないという動きをしているということだと思います。急速に理解を深めようとすれば、歪みが出てきてしまうこともあるかと思います。国は体裁を整えることが目標なので、当事者の利益とは必ずしも合致しませんし。
話はぜんぜん変わってしまいますが、阪神の震災をきっかけにまとめられた、ボランティアのマニュアルを見たことがあります。そこには、被災者の心理状況の推移が書かれており、ある種とても文学でした。
ちょっと話を戻して、例として「視力」を挙げたのは、これが「誰でも起こりうる」「技術で解決できている」ということで、便宜上「メガネキャラ」的な個性に行ったものということです。コンタクトの人もいますけれども。レンズのない時代で視力が極端に悪ければ、盲目に準ずるハンディキャップとなったことでしょう。ただ、発達障害のいくつかが理解され、適材適所的に配置され周囲から理解される事例みたいなことは、メガネの事例とは若干異なっているように思います。また少し飛んだ話をしますと、黒人が被差別者だった頃、同じ人間でありながら、人間扱いをされていなかったということがありました。そういう感覚に近いものが視線としてありますし、彼らを理解するには、文学が足りていないと思います。LGBTの方々に対する視線もそうですね。ハンディキャップを持った方々に対してもそうです。
自らの体験をそのある種の文学とするには、労力がかかってしまうというのが、マジョリティの本音でしょう。
ただ、人間はどうしようもなく何かを残そうとしたり、表現したりしようとしますし、技術は表現の手助けをするということは確かです。あるいは突然ベストセラーが世に出て、全てを解決する文学が生まれる可能性も0ではないと思っています。
それまでは、画面越しではなく、自分の眼で見たものを中心に、まずは考えていくしかないんじゃないかなと、そのように思いました。