『たとえば私の人生に目口もないようなもの、あれこそ嘘の精なれ』の感想

バタフライ・エフェクト」という映画があるけれども、僕がカオス理論に触れたのはもっと前、多分「YU-NO」というゲームのサターン版をプレイしたのが最初だったと思う。ゲームの「セーブ」という概念と、カオス理論の親和性が高かったことから、様々な作品、例えば「シュタインズゲート」のような作品が生まれたし、パラレルワールドの「平行」を意味するところが、広くではないものの、一般に広まったのだと思っている。
少し前置きが長くなった。バタフライ・エフェクトにおける「蝶の羽ばたき」という些事を、日常の些事に置き換えて、ループものにした、というのが柱で、そこに露悪的なものと、人の弱さを詰め込んだ、というかたちの作品だった。
巻き戻したくなる程の何かを、弱さ故に累積させてしまう主人公が、一般的なヒロイックな物語であれば抗うところを、徹底的に逃げに入り、一番「マシ」なものを無意識的に選択していく。ヒロイックでないが故に、カタルシスはなく、薄暗い共感が広がっていく。そこはどうしても、私小説的ではなかろうか、自画像ではなかろうかと勘繰りたくなる。表現とは、多かれ少なかれそういうものなのだけれども。
ただ、その蝶の些細な羽ばたき、つまり日常の些事を改変する度に、世界を取り巻く情勢は悪化していく。最初は普通の幼稚園の風景だったはずが、リピートを繰り返すうちに戦時下になっていく。ただ、そんな「世界の大事」よりも、「私の人生」にとっては、その「日常の些事方が大事だ」ということが、暗に含まれているように思う。これは全くその通りだと思う。明日自分が戦争に巻き込まれる、なんてことよりも、「納期に間に合わない」といった些事の方が、瞬間最大風速は大きいからだ。大きすぎる事象は、個人の知覚が及ばない。及ばないが故に鈍感になる。日常の些事には、あれだけ敏感になって、繊細になって、傷ついているというのに。
序盤から中盤、物語の筋から外れるようなモノローグが出てくる。大概、対義語(アントニム)のものだ。「他人」の対義語は「身内」か? いや「他人」だ。等。そのモノローグの意味は、主人公の出生の秘密にあり、主人公が演劇の題材を何故「桃太郎」つまり、おじいさんおばあさんと血のつながりのない子供が主人公の作品にしたのか、というところにもかかってくる。なので、その「些事」の発端は出生、あるいは教育にもある、という読み方もできる。
最後のシーン、いろいろな見方ができるかと思うけれど、僕としては「やっぱ強くてニューゲーム選んじゃいますよねー」だった。
途中若干和ませてからぶん殴る構成は、映画の「告白」をちょっと思い出した。お笑いの原則が緊張と緩和であるならば、緊迫させるためにはその逆、緩和からの緊張が効果的だ。
そのあたり、人のよさそうだった登場人物の殆どが、悪逆的な表情も出すというところや、あるいはループ表現でのビデオの巻き戻し的演出、敢えてへたくそに演じてみせるシーンなど、役者さん達が技量を発揮するには事欠かない演出だったし、それに役者さん達が応えていたと思う。
最後に僕自身の話をすると、以前はもっと、「些事」に拘っていたり、執着しているところがあったと思う。が、今はそれが驚くほど小さくなっているんだなということを、これを見ながら思った。巻き戻したいことはたくさんあるけれども、同時に巻き戻したくない何かも、また得ながら生きていけているのかなと思う。