同志社大学長の安保の話に思うこと

http://www.sankei.com/smp/politics/news/150713/plt1507130012-s.html
学者さんだからだろうか。本人が自明として端折っている論拠があまりにも多いのではなかろうか。(あるいは根拠がないんだろうか)憶測も多いし。そこを我らは聞きたいんだけどなぁ。
目的のためなら(非常時だから(非常時じゃないけども))手順をすっ飛ばしていいということにはならないだろう。憲法学者だって、「憲法を絶対変えるな」とはみんながみんな言っていないと思う。ただ、「憲法違反の立法の前例」を作るということで、憲法の地位を相対的に下げることへの懸念があるんだと思う。同志社大の学長さんだから、多分そのことには気づきながらのポジショントークなのだろうけれども。
 
「定義できない」は逃げなんじゃないかな。「現時点で」とか「○○を根拠とするならば」とか、言いようはある。まぁ「配慮」なんだろうけどね。
 
二重ロックを一重ロックにしますって言ったら、そりゃ反発があるんじゃねーのということはある。家の鍵だって、二つあったのを一つにしますって言われたら、「大丈夫なんですか?」ってなるのは当然のことのように思う。
 
説明責任は政府与党側にあるので、「その理屈は民間で考えてよ」はおかしくないだろうか。今回の話、ざっくり言ってしまえば平和へのアプローチとして、太陽でいくのか北風でいくのかというところで、北風で行くと言った与党が提案する北風案が、それじゃ旅人はマントを脱がないんじゃね? って説明だったということに尽きると思う。
やり方としての信条みたいなものは、勿論個々人のなかにあって、北風こそが最善、いや太陽が最善とあるとは思う。でも、政治ってのは結果を出さなければならんわけだよね。クリティカルな判断に失敗したら、どうなってしまうのかは、前政権を見ればわかるでしょうよ。
僕は平和が実現するのであれば、どっちでもいいと思っているけれども、青写真が描けない人に判断を委ねる気にはなれないな。国民を侮ったような説明も気に入らないけれども。
 
『自分と見解の異なる人たちを、売国的であるというレッテルを貼って批判するという議論からも、深まりは生まれない。』
これはとても正しい。日本人はとかく自分と意見を異にする人間に対して、人格を否定されたとか、必要以上の反発をする人間が多い。これは封建社会の弊害なんだけれども、(つまり、偉い人の言うことは絶対という価値観を是としてきた文化があるということ)基本的に意見を前に進めていくというのは、弁証法的に行われていくものなわけですよ。意見があって、対立意見があって、折衷案や妥協された意見が纏められる。その纏められた意見に対して、必要ならば反対意見が出て、という繰り返しのなかでブラッシュアップされていくというのがそれね。
でも、もう「売国奴」とか、誹謗中傷になっちゃったらおしまいじゃん。その時点で思考停止だし、「発展しない意見しか持たない=現実味のない使えない結論しか持てない」ってことじゃないのかな。それは、例え中道の意見の人であっても、僕はそう思う。
もうね、いい加減そういうのやめようぜ。俺も間違うし、間違ったら改めればいいだけの話でしょ。「意見がコロコロ変わる」ってことを、日本ではとても否定的に受け取り過ぎる。もちろんなかには「ひよってる」人もいるだろうけれども、自信をもって意見を変えた人は、前に進んでいるんだよ。その違いを理解しろよって思う。勿論、「何故意見を変えたのか」は、言明すべきだけどね。親に説得されたとかはダメだけど。(過去にありましたね)
 
地方でも議論を深めろって、繰り返しになるけれども、青写真を与党が示して、それを地方に持ち帰って、議論がされるわけでしょ。ボールを投げたら絶対に「反対」のボールとして返ってくるから投げませんじゃ、もう話にならないよね。相手(地方)がボールを投げ返す時間を与えずに、不意打ちする気満々じゃんとしか思えんよ。まーわかるよ。既に基地が建設してあって、負担も少ないし、いざ戦地となったときに、沖縄は切りやすい(被害が他の地域に伝播しにくい)と、そう考えるのはマキャベリズム的には正しいと思う。ただ、それを正直に公言したら猛反発食らうだろうさ。危険地域にはバーターで思いやり予算つけて、ということを、福島原発の周囲もそうだったし、福井なんかにも、もちろん沖縄にもやってきて、そのバーター住民のためにお金撒いてることを黙っているというのもわかるわ。でも、それ税金だし、税金を投入しているということに関しては、公表してしまった方がいいんじゃないかなって思う。そうしたら、納得づくで住む人も現れると思うわ。なんでも「察して」もらいたがる文化も、日本のとてもとても悪いところだよ。
 
日頃から言葉に接していれば、別段「希望」「欲望」「願望」「待望」も、「野望」「羨望」「切望」も、意味を取り違えたりはしない。もしそれを取り違えるならば、それは文字に鈍感になっているということでもあり、あるいは形而上的に退化が始まっているとも言える。全部「ヤバい」で片付けてちゃダメってことね。
今の与党を見て感じるのは、ゲームの終盤で自分の勝ちが見えて、行動が雑になっているような感覚だ。
上記の「○望」で言うならば、やはり「野望」だろう。真摯に国のことを考えて、説明を尽くそうとするならば、あれほど国民をバカにしたような手は打たない。いかに為政者にとって、愚民が最も都合がいいのだとしても。(そういえば、国が人文学を大学で教えなくなるそうですなぁ)
 
多分、村田氏は言いたいことが言えなかったのだろうなと察するけれども、言明できないなりの説明に、もう少し心を砕くべきだったのではないかと思う。