最近のいろいろに思うことなど

僕が大学生の頃の話なので、既に十年以上前のことですが、「二元論は行き詰った」という話を聞きました。確かに、是か非か、AかBかというのは、その実、選択肢を提示した者に結論を二つに絞られ、誘導されているという事実に、まず気付くべきだなと思ったものです。
よく言われるのが、人は「選択肢」が好きで、白紙状態が嫌いだということです。真っ白な画用紙を渡されて、自由に描いてねと言われるよりは、予め何かが描かれた紙を渡されるか、お題を決めてもらった方が描きやすいということがあります。これは、「判断力」を消費するからですね。最近、実は判断力というのは、体力のように消耗するものだということが言われています。だから、部屋の片付けで要る要らないを判断していると、とても消耗するということだそうですよ。
話を戻しますが、そういった「二元論」は、結局のところ、「考えるのが面倒臭いから」なんじゃないんですか? ということが言いたいわけですね。
 
右派、左派、その括りって、理系、文系並に馬鹿げたものだと思うんですよ。よく、ポジショントークだなんだかんだと言いますけれども、「自分が所属する集団の利益(であろうこと)のために、自身の主張を曲げ」たら、もう僕に言わせればアウトです。そりゃね、集団生活の中で、マナーとして折り合いをつけなければならないところはありますよ。でも、それがことポリシーの場合、「仲良しを優先させてどうするんだよ」と言わざるを得ない。「仲良しを優先させたいがあまり、共通の敵を叩く」とか、それこそが争いの原点なんじゃないですかね。巷に溢れるヘイトスピーチ、それって、何か日本を前に進める力になるんでしょうか? 絶対にならないですよね。
 
それと、知識や情報がない人を貶めるのも、得にならないですよね。
「あいつバカだな」と言ったところで、無駄にヘイトが高まるだけで、誰の何のプラスにもならない。
もし物事を前に進めたいと思うなら、そういったひとたちに、いかにわかりやすく伝えるかに心を砕くべきなのではないかと思います。知らないこと、僕にもたくさんあります。ヒトラーが総統になる背景とかも、つい最近知りましたし。
普段、皆さんお仕事をされているなかで、例えばひとつの商品を作ったときに、それを知らない人にいかにそれを伝えて、いい印象を持ってもらうかということに心を砕いているはずなのに、なぜポリティックな話題になるとそれをしないのか、本当に疑問で仕方がないです。正直昨今の状況って、相手の主張を真っ直ぐ受け止めないという意味で、学級会以下ですよ。
 
https://gunosy.com/articles/RKoP8
別に太田さんや堀江さんは、好きでも嫌いでもないですけれども、サンプルとして引用させていただきます。
 
何かを主張するに際して、きちんと情報を「自分で」集めずに、伝聞を鵜呑みにしてしまう危険性については、異論を挟む余地がないように思います。一時情報源を探す、直接読み込む、複数の角度から検証するというのは、はっきり言ってクソ面倒くさいことです。しかし、真実を知りたいのであれば、そのプロセスを飛ばすことはできません。堀江さんが主張していることは、おそらくそういうことです。そういう方々に呆れたということなのでしょうけれども、まぁ呆れられた方は「なんだと!」って言うだろうなということだけです。一次情報にあたるための手段を示したり(なんでそこまでしなくちゃいけないんだよって本人は思うでしょうけれどもね)ということがあったら、よかったのかなと思います。
まぁでも、だいたいの皆さんが「にわか」を嫌いますよね。でも、「にわか」(初心者)を経験しなければ、ベテランにもなれないわけで、そこをどう導くかというのが、例えば将棋のファンであっても、宝塚のファンであっても、思想の集団であっても、同様にあるように思います。
 
これはあくまで僕の感想ですけれども、現在のやり方のデモに直接的な即効性はないように思います。ただし、そういった主張を持っている人たちが一定数いるということを示すということはできます。前者的な意味では無意味ですし、後者的な意味では意味があります。
ついでに、何故社会を変える力にならないかというと、主張を届けたい相手が、デモ参加者を烏合の衆だとか、歪んだ運動家だとみなしたくなるような文脈を、主張の中に織り交ぜてしまっているからです。この部分をもって、僕は「仲良しを優先させて、ポリシーを曲げるのはやめた方がいい」と言っています。相手を挑発したり、煽るようなフレーズ、無礼なプラカードなどもっての他です。皆さんは、言葉を届けたいのではないでしょうか? 北風と太陽の例ではないですが、どういった言葉なら届くのか、冷静に考えたことはあるのでしょうか? あるいは、どういった言葉を発する集団であったら、共感してくれる人が増えると思いますでしょうか?「こういう考えに至らないヤツは頭がおかしい」そんな風に思っている人たちには、僕は絶対に共感できないことでしょう。
そうなってしまう原因はわかります。人のモチベーションとして、一番強いのが怒りだからです。怒りや不安に共感させて行動を炊き付ける。それは、例え平和の主張であっても、戦争のやり口となんら変わるものではないように思います。初動は怒りでいいでしょうけれども、それを加工せずに吐き出したら、それはただのガス抜きです。ガス抜きにも一定のメリットはあるでしょうけれども、大の大人が時間を割いてやるべきものなのでしょうか? 同じ時間を使うならば、より効果的に平和に貢献するにはどうすればいいか。考えれば見えてくるように思います。
先日SHELLYさんの記事を見ましたけれども、主張として共感するものではないですが、「デモを行う自由がある」ということは、僕もとても素晴らしいものだと思います。だからこそ、それが意味のあるものになってくれればなと思います。
 
国家運営、というと話は大きくなってしまいますが、例えば一つの会社を思い浮かべてください。その社則でおかしな社則があったとします。それを変えようと思ったとき、「何故その社則があるんだ?」という疑問に行き着くことは、とても大切なことです。法とは、何かがあったから作られたと考えるのが妥当だからです。そういった社則は、ある種生態系のように機能していることが多々あります。つまり、その法である事象を抑制するおかげで、会社の出費が少なくなり、それを社員に還元できているだとか、そういった具合です。ですので、もし何か主張するときは、できれば木を見て森を見ずにならず、木も森も見ていただきたいと思います。
例えばですね、自転車通勤を解禁にした会社が、社員が度々交通事故にあって、結果大損害を出したとしましょう。そのとき、「解禁しろ!」と主張した人が「決断したのは社長だから!」と逃げるのはよくないんじゃないの? こういったリスクがあることも理解したうえで解禁を主張すべきなんじゃないの? ということですかね。
国家運営となると、更にこれが複雑化して、見え難い理由、あるいは明らかにならない理由もあり、どれをどこまで信じるかということはあります。
何にせよ、選択とは、単に一局面で舵を切ったに過ぎません。船が暗礁を回避するのに、例えば暗礁を砕くだとか、一旦停船して風向きが変わるのを待つとか、選んだ選択の結果を良いものにする努力というものは、絶えず行われるべきだと思います。これは、別に思想に限らずですけれども。自転車通勤を解禁したら、交通ルール講習を必ず受けさせて、ヘルメットの着用を義務化すればいいといった感じでしょうか。
 
最後に、「煽り耐性がない」のような、「武器を持たないで拳でだったら殴り合ってもいい」姿勢というものに、僕は全く共感できません。そういう場がWeb上の限られた場所にあることはとてもとても歓迎しますが、プロレスをリングの外にもってきて、アスファルトの上でパイルドライバーしたら死ぬだろということです。
トレンドをWebが牽引しているというのはいいですが、TPOは大事です。
発言は自由にしていいと思いますし、人から嫌われるのも自由です。ときには、見境なく怒りをぶちまけなければ、やってられないこともあるでしょう。
「ここから先はリングの上」という明確な定義をもって、ルールの中で戦うのをよしとして、いかなる公の記事にも、誹謗中傷の類を、勝手に現代の文脈と判断してねじ込むのはやめていただきたいと思います。
 
僕からは以上です。