最近のいろいろに思うことなど

僕が大学生の頃の話なので、既に十年以上前のことですが、「二元論は行き詰った」という話を聞きました。確かに、是か非か、AかBかというのは、その実、選択肢を提示した者に結論を二つに絞られ、誘導されているという事実に、まず気付くべきだなと思ったものです。
よく言われるのが、人は「選択肢」が好きで、白紙状態が嫌いだということです。真っ白な画用紙を渡されて、自由に描いてねと言われるよりは、予め何かが描かれた紙を渡されるか、お題を決めてもらった方が描きやすいということがあります。これは、「判断力」を消費するからですね。最近、実は判断力というのは、体力のように消耗するものだということが言われています。だから、部屋の片付けで要る要らないを判断していると、とても消耗するということだそうですよ。
話を戻しますが、そういった「二元論」は、結局のところ、「考えるのが面倒臭いから」なんじゃないんですか? ということが言いたいわけですね。
 
右派、左派、その括りって、理系、文系並に馬鹿げたものだと思うんですよ。よく、ポジショントークだなんだかんだと言いますけれども、「自分が所属する集団の利益(であろうこと)のために、自身の主張を曲げ」たら、もう僕に言わせればアウトです。そりゃね、集団生活の中で、マナーとして折り合いをつけなければならないところはありますよ。でも、それがことポリシーの場合、「仲良しを優先させてどうするんだよ」と言わざるを得ない。「仲良しを優先させたいがあまり、共通の敵を叩く」とか、それこそが争いの原点なんじゃないですかね。巷に溢れるヘイトスピーチ、それって、何か日本を前に進める力になるんでしょうか? 絶対にならないですよね。
 
それと、知識や情報がない人を貶めるのも、得にならないですよね。
「あいつバカだな」と言ったところで、無駄にヘイトが高まるだけで、誰の何のプラスにもならない。
もし物事を前に進めたいと思うなら、そういったひとたちに、いかにわかりやすく伝えるかに心を砕くべきなのではないかと思います。知らないこと、僕にもたくさんあります。ヒトラーが総統になる背景とかも、つい最近知りましたし。
普段、皆さんお仕事をされているなかで、例えばひとつの商品を作ったときに、それを知らない人にいかにそれを伝えて、いい印象を持ってもらうかということに心を砕いているはずなのに、なぜポリティックな話題になるとそれをしないのか、本当に疑問で仕方がないです。正直昨今の状況って、相手の主張を真っ直ぐ受け止めないという意味で、学級会以下ですよ。
 
https://gunosy.com/articles/RKoP8
別に太田さんや堀江さんは、好きでも嫌いでもないですけれども、サンプルとして引用させていただきます。
 
何かを主張するに際して、きちんと情報を「自分で」集めずに、伝聞を鵜呑みにしてしまう危険性については、異論を挟む余地がないように思います。一時情報源を探す、直接読み込む、複数の角度から検証するというのは、はっきり言ってクソ面倒くさいことです。しかし、真実を知りたいのであれば、そのプロセスを飛ばすことはできません。堀江さんが主張していることは、おそらくそういうことです。そういう方々に呆れたということなのでしょうけれども、まぁ呆れられた方は「なんだと!」って言うだろうなということだけです。一次情報にあたるための手段を示したり(なんでそこまでしなくちゃいけないんだよって本人は思うでしょうけれどもね)ということがあったら、よかったのかなと思います。
まぁでも、だいたいの皆さんが「にわか」を嫌いますよね。でも、「にわか」(初心者)を経験しなければ、ベテランにもなれないわけで、そこをどう導くかというのが、例えば将棋のファンであっても、宝塚のファンであっても、思想の集団であっても、同様にあるように思います。
 
これはあくまで僕の感想ですけれども、現在のやり方のデモに直接的な即効性はないように思います。ただし、そういった主張を持っている人たちが一定数いるということを示すということはできます。前者的な意味では無意味ですし、後者的な意味では意味があります。
ついでに、何故社会を変える力にならないかというと、主張を届けたい相手が、デモ参加者を烏合の衆だとか、歪んだ運動家だとみなしたくなるような文脈を、主張の中に織り交ぜてしまっているからです。この部分をもって、僕は「仲良しを優先させて、ポリシーを曲げるのはやめた方がいい」と言っています。相手を挑発したり、煽るようなフレーズ、無礼なプラカードなどもっての他です。皆さんは、言葉を届けたいのではないでしょうか? 北風と太陽の例ではないですが、どういった言葉なら届くのか、冷静に考えたことはあるのでしょうか? あるいは、どういった言葉を発する集団であったら、共感してくれる人が増えると思いますでしょうか?「こういう考えに至らないヤツは頭がおかしい」そんな風に思っている人たちには、僕は絶対に共感できないことでしょう。
そうなってしまう原因はわかります。人のモチベーションとして、一番強いのが怒りだからです。怒りや不安に共感させて行動を炊き付ける。それは、例え平和の主張であっても、戦争のやり口となんら変わるものではないように思います。初動は怒りでいいでしょうけれども、それを加工せずに吐き出したら、それはただのガス抜きです。ガス抜きにも一定のメリットはあるでしょうけれども、大の大人が時間を割いてやるべきものなのでしょうか? 同じ時間を使うならば、より効果的に平和に貢献するにはどうすればいいか。考えれば見えてくるように思います。
先日SHELLYさんの記事を見ましたけれども、主張として共感するものではないですが、「デモを行う自由がある」ということは、僕もとても素晴らしいものだと思います。だからこそ、それが意味のあるものになってくれればなと思います。
 
国家運営、というと話は大きくなってしまいますが、例えば一つの会社を思い浮かべてください。その社則でおかしな社則があったとします。それを変えようと思ったとき、「何故その社則があるんだ?」という疑問に行き着くことは、とても大切なことです。法とは、何かがあったから作られたと考えるのが妥当だからです。そういった社則は、ある種生態系のように機能していることが多々あります。つまり、その法である事象を抑制するおかげで、会社の出費が少なくなり、それを社員に還元できているだとか、そういった具合です。ですので、もし何か主張するときは、できれば木を見て森を見ずにならず、木も森も見ていただきたいと思います。
例えばですね、自転車通勤を解禁にした会社が、社員が度々交通事故にあって、結果大損害を出したとしましょう。そのとき、「解禁しろ!」と主張した人が「決断したのは社長だから!」と逃げるのはよくないんじゃないの? こういったリスクがあることも理解したうえで解禁を主張すべきなんじゃないの? ということですかね。
国家運営となると、更にこれが複雑化して、見え難い理由、あるいは明らかにならない理由もあり、どれをどこまで信じるかということはあります。
何にせよ、選択とは、単に一局面で舵を切ったに過ぎません。船が暗礁を回避するのに、例えば暗礁を砕くだとか、一旦停船して風向きが変わるのを待つとか、選んだ選択の結果を良いものにする努力というものは、絶えず行われるべきだと思います。これは、別に思想に限らずですけれども。自転車通勤を解禁したら、交通ルール講習を必ず受けさせて、ヘルメットの着用を義務化すればいいといった感じでしょうか。
 
最後に、「煽り耐性がない」のような、「武器を持たないで拳でだったら殴り合ってもいい」姿勢というものに、僕は全く共感できません。そういう場がWeb上の限られた場所にあることはとてもとても歓迎しますが、プロレスをリングの外にもってきて、アスファルトの上でパイルドライバーしたら死ぬだろということです。
トレンドをWebが牽引しているというのはいいですが、TPOは大事です。
発言は自由にしていいと思いますし、人から嫌われるのも自由です。ときには、見境なく怒りをぶちまけなければ、やってられないこともあるでしょう。
「ここから先はリングの上」という明確な定義をもって、ルールの中で戦うのをよしとして、いかなる公の記事にも、誹謗中傷の類を、勝手に現代の文脈と判断してねじ込むのはやめていただきたいと思います。
 
僕からは以上です。

同志社大学長の安保の話に思うこと

http://www.sankei.com/smp/politics/news/150713/plt1507130012-s.html
学者さんだからだろうか。本人が自明として端折っている論拠があまりにも多いのではなかろうか。(あるいは根拠がないんだろうか)憶測も多いし。そこを我らは聞きたいんだけどなぁ。
目的のためなら(非常時だから(非常時じゃないけども))手順をすっ飛ばしていいということにはならないだろう。憲法学者だって、「憲法を絶対変えるな」とはみんながみんな言っていないと思う。ただ、「憲法違反の立法の前例」を作るということで、憲法の地位を相対的に下げることへの懸念があるんだと思う。同志社大の学長さんだから、多分そのことには気づきながらのポジショントークなのだろうけれども。
 
「定義できない」は逃げなんじゃないかな。「現時点で」とか「○○を根拠とするならば」とか、言いようはある。まぁ「配慮」なんだろうけどね。
 
二重ロックを一重ロックにしますって言ったら、そりゃ反発があるんじゃねーのということはある。家の鍵だって、二つあったのを一つにしますって言われたら、「大丈夫なんですか?」ってなるのは当然のことのように思う。
 
説明責任は政府与党側にあるので、「その理屈は民間で考えてよ」はおかしくないだろうか。今回の話、ざっくり言ってしまえば平和へのアプローチとして、太陽でいくのか北風でいくのかというところで、北風で行くと言った与党が提案する北風案が、それじゃ旅人はマントを脱がないんじゃね? って説明だったということに尽きると思う。
やり方としての信条みたいなものは、勿論個々人のなかにあって、北風こそが最善、いや太陽が最善とあるとは思う。でも、政治ってのは結果を出さなければならんわけだよね。クリティカルな判断に失敗したら、どうなってしまうのかは、前政権を見ればわかるでしょうよ。
僕は平和が実現するのであれば、どっちでもいいと思っているけれども、青写真が描けない人に判断を委ねる気にはなれないな。国民を侮ったような説明も気に入らないけれども。
 
『自分と見解の異なる人たちを、売国的であるというレッテルを貼って批判するという議論からも、深まりは生まれない。』
これはとても正しい。日本人はとかく自分と意見を異にする人間に対して、人格を否定されたとか、必要以上の反発をする人間が多い。これは封建社会の弊害なんだけれども、(つまり、偉い人の言うことは絶対という価値観を是としてきた文化があるということ)基本的に意見を前に進めていくというのは、弁証法的に行われていくものなわけですよ。意見があって、対立意見があって、折衷案や妥協された意見が纏められる。その纏められた意見に対して、必要ならば反対意見が出て、という繰り返しのなかでブラッシュアップされていくというのがそれね。
でも、もう「売国奴」とか、誹謗中傷になっちゃったらおしまいじゃん。その時点で思考停止だし、「発展しない意見しか持たない=現実味のない使えない結論しか持てない」ってことじゃないのかな。それは、例え中道の意見の人であっても、僕はそう思う。
もうね、いい加減そういうのやめようぜ。俺も間違うし、間違ったら改めればいいだけの話でしょ。「意見がコロコロ変わる」ってことを、日本ではとても否定的に受け取り過ぎる。もちろんなかには「ひよってる」人もいるだろうけれども、自信をもって意見を変えた人は、前に進んでいるんだよ。その違いを理解しろよって思う。勿論、「何故意見を変えたのか」は、言明すべきだけどね。親に説得されたとかはダメだけど。(過去にありましたね)
 
地方でも議論を深めろって、繰り返しになるけれども、青写真を与党が示して、それを地方に持ち帰って、議論がされるわけでしょ。ボールを投げたら絶対に「反対」のボールとして返ってくるから投げませんじゃ、もう話にならないよね。相手(地方)がボールを投げ返す時間を与えずに、不意打ちする気満々じゃんとしか思えんよ。まーわかるよ。既に基地が建設してあって、負担も少ないし、いざ戦地となったときに、沖縄は切りやすい(被害が他の地域に伝播しにくい)と、そう考えるのはマキャベリズム的には正しいと思う。ただ、それを正直に公言したら猛反発食らうだろうさ。危険地域にはバーターで思いやり予算つけて、ということを、福島原発の周囲もそうだったし、福井なんかにも、もちろん沖縄にもやってきて、そのバーター住民のためにお金撒いてることを黙っているというのもわかるわ。でも、それ税金だし、税金を投入しているということに関しては、公表してしまった方がいいんじゃないかなって思う。そうしたら、納得づくで住む人も現れると思うわ。なんでも「察して」もらいたがる文化も、日本のとてもとても悪いところだよ。
 
日頃から言葉に接していれば、別段「希望」「欲望」「願望」「待望」も、「野望」「羨望」「切望」も、意味を取り違えたりはしない。もしそれを取り違えるならば、それは文字に鈍感になっているということでもあり、あるいは形而上的に退化が始まっているとも言える。全部「ヤバい」で片付けてちゃダメってことね。
今の与党を見て感じるのは、ゲームの終盤で自分の勝ちが見えて、行動が雑になっているような感覚だ。
上記の「○望」で言うならば、やはり「野望」だろう。真摯に国のことを考えて、説明を尽くそうとするならば、あれほど国民をバカにしたような手は打たない。いかに為政者にとって、愚民が最も都合がいいのだとしても。(そういえば、国が人文学を大学で教えなくなるそうですなぁ)
 
多分、村田氏は言いたいことが言えなかったのだろうなと察するけれども、言明できないなりの説明に、もう少し心を砕くべきだったのではないかと思う。

経済の話

僕は経済学者でもなんでもないので、以下は完全に妄言。
ご指摘、ご教授いただきたく。

自由競争においてはとても難しいことのように思うけれども、価格決定について下限を設定するべきではないかと思うことがある。
ホワイトカラーエグゼンプション法人税減税等、企業に有利な法案が通ったとして、そこで浮いた資産は、多分「値下げ」という名の、似非企業努力に費やされ、被雇用者に還元される率は低い。
何故「似非」かといえば、「安ければ買う」などというのは当たり前で、どこまでが消費者の「過剰要求」なのか、どこまでが「妥当な要求か」の線引きを、その業界で立てられていないからです。
僕個人の見解としては、サービス業が「行き届いたサービスとして、過剰にサービスを行った結果、日本人がモンスター化したようにも思っています。「お金払っているんだから、やってくれて当たり前」そんな意識がどこかにあるのではないでしょうか。そしてそういった意識が、他のビジネスにも影響を与えているのではないでしょうか。
過剰要求に応えるべく、「会社が潰れたらみんな路頭に迷うから、デスマーチを一緒に進もう」という発想そのものが終わっている。それって職だとか生活を人質(?)に、強制労働を強いているということと変わらないのではないか。

そういったデスマーチというか、人的資源を使い倒して、なんとかその会社や業態、業界を維持しようというのは、「会社を畳むことの難しさ」と「再雇用の難しさ」、「投入してしまった資源(時間、人、金)への執着」の三点から来る問題のように思う。

まず、会社を畳むことの難しさ。これは、「再起の難しさ」でもある。日本人は真面目なので、その事業がこのままでは危ういと思ったときにとても頑張る。頑張るのはいいけれど、限界や期限を設定せずに頑張る。その結果、負債が膨らんで、結果大きな借金、破産というかたちで終焉を迎える。そうなると、その経営者は社会的な信用を失い、経営者失格の烙印を押されてしまう。最悪の場合首をくくる。それだけの責任を、一人の経営者に被せていいのかと、この激動の時代には思う。風向きがひとつ変わっただけで、会社がいくつも潰れるような昨今だ。サステナビリティ? 事業継続性? それを大型ではない資本でどう実現する? それは多くの場合無理だし、そのリスクを被せておいて、会社に溜め込むなとか、経営者の報酬が高いとかいうのはおかしな話だと思う。資本があれば、それは株を発行して、倒産した際にリスクを被る対象を増やすことで、自らを人質にできて、倒産も「会社更生法」で軟着陸するかもしれないが、そうでない人は?
ということで、まず必要なのは会社をソフトランディングさせるための機関(保険会社でもその会社に貸し付けてる銀行でもコンサルでもなんでもいいんだけど)と、そのソフトランディングさせるための資金(共同出資でも、税金でもなんでもいい)なのではないかな。
要は、会社を作りやすく、畳みやすい仕組みがない限り、「新たな雇用」の問題を含め、日本でのビジネスが大手志向になってしまうということ。冒険ができなくなり、新しいものが生まれにくくなってしまうということ。
逆説的に、現状のクソシステムの中で新たなチャレンジをされている方々は、本当に偉いと思う。

次に再雇用の難しさ。
僕は割と職を転々としてますが、専門的な知識だとか、そういうものが必要な仕事ってものすごく少ないです。
役人だとか、あとNTTの職員だとか、三年に一度くらいのペースで大きな配置換えを行いますが、それでも会社が上手く成り立っているというのは、つまり世の中の仕事の殆どが、専門性を要求されないということです。
専門性を要求されないのに、何故人を選ぶのかというと、単純に高望みです。どの会社も、「いい人が欲しい」と言いますが、そのポジション、本当に「いい人」が必要なのでしょうか。そして、何故面接する人の大半は、その「いい人」に該当しないという判断が下るのでしょうか。
僕は、それは雇用者(というか人事部)と被雇用者(というか被雇用者のパーソナリティを担ってきた教育とか)両者に問題があるように思います。
企業が若い優秀な人材を欲しがる背景には、自社で抱える人材の不良在庫の問題があるように思います。以前いた会社は、社員よりも役員、顧問の方が多いという、かなりアレな状態でした。そういった方々の生活を守るという点では素晴らしいですが、支給金額を聞くとげんなりします。
能力的に見れば、体力の20代、30代があって、経験の40代、50代があり、そのくらいまではいけるとしても、その先は厳しいです。でも、年金の支給がズレる等となれば、どうしたって会社にいさせてくれという話になります。となれば、社会で起こっていることの縮図が、社内でも発生するということです。
更に言ってしまえば、会社によっては、30代での会社の貢献度と、50代の会社への貢献度、前者の方が高かったりすることもありえない話ではないです。肉体労働では、その可能性が高いのではないでしょうか。
そうした、プチ社会、プチ家族としての企業体というのは、つまり倒産が許されません。人生設計の中に、会社の継続性が盛り込まれているということです。それでいいのかという話。年金問題なんて言われていますけれども、では大きな会社にいて企業年金貰う人々と、大きな会社にいたけれど、会社が倒産して貰えなかった人がフェアかと言えば、それは違うはずです。
話が脱線しつつ、会社の畳み辛さの一端にも触れましたが、「何かあったときに対応できる優秀な社員」を要求しがちだということです。上から目線で恐縮ですけれど、実際に優秀な人を雇うと、自分の問題点を指摘されて煙たい思いをすることが殆どなので、身の丈に合った人材選びが妥当なように思います。
ざっくり言ってしまうと、「うち、偏差値50だけど、転校生に要求するのは65以上だわ」って話。そうでない会社ももちろんあるけど、頭脳でなく、人間偏差値として50の人と65の人が現れた場合、だいたい65を採用して、人材相場がつりあがっているということですね。供給過多なので。
で、需要であるところの雇用側に余裕がなくて、なんとなくよさげな人材を投入すれば事態が改善するんじゃないかという、ざっくりとした頭を持ちつつ、いざそういった人材が提案すると、リスクにビビって煙たがるという悪循環がありますし、かといって新たな会社が立ち上がるには、今の風が吹けば会社が潰れる社会では難しいというのが現状のように感じます。
中途採用に関して、それまで他社でノウハウや知識を培ってこなかったとしたら、「そいつが悪い!」と責められたりしますが、みんながみんなそんな労働を強いられるべきなのでしょうか?
だとするならば、その事実を義務教育までに周知すべきだし、「学校は職業訓練所ではない」とカッコよく言うのもいいですけれど、ではどこが「職業訓練所」を担うのか? ということになりますよね。今って、それが風が吹いて潰れる会社が担ってるんじゃないかって思いますよ。僕もそんな感じでしたし。
なんかまとまらなくなっちゃったけど、
・雇用側は漠然とした未来志向で、若く優秀な人材を求めてしまう
・そもそもの働き口が少ない
・例えば、50代での中途採用(キャリア無し)についての考慮が、社会システムとして考慮されておらず、いまだに終身雇用脳のところが多い
・働く、再雇用される、に際してというか、「労働」「生活」で何が必須となるか、武器となるのか、「職業訓練」「生活訓練」の過程が、人生で必須にも関わらず教育に盛り込まれていない
って感じですね。
僕は「じゃあ50代雇ったら補助金出すよ」みたいなシステムは好きじゃないし、「70代でも働ける人は働けばいいじゃん。なんだよ年金って。今払ってる世代がもらえないってわかっていながら貰うの? 甘え?」って思ってますけどね。

投入してしまった資源への執着。
これは簡単ですね。「あの事業にはあれだけつぎ込んだんだから、なんとしても成功させなければならない」という、ギャンブルで絶対に大負けする人のあの発想です。多かれ少なかれ、持っている人が多いように思います。
会社が破綻しない範囲だとか、それが何か新しいものを生み出すのであれば、多少は許される部分ではあるのでしょうけれども。

もし会社を簡単に畳めて、再雇用もしやすく、事業に執着しないのであれば、多分簡単に「辞めます」と言える社会が来るように思う。被雇用者、経営者、両者のリスクが軽減される、と言えばいいだろうか。
そうすれば、仕事のやり方、内容を選べることに繋がると思う。同時に、供給側と要求側で、どちらが我侭を言っているのかのジャッジも、必要となってくるように思うが。
記事は見ていないけれども、竹中氏が「正社員をなくそう」と言ったのも、労働の格差を正社員側で揃えることは無理なので、非正規雇用というかたちでそろえた上で、各々が会社と契約していくという、野球選手のようなスタイルがフェアだという内容だったのではないかと思う。そりゃ既得権益(正社員)の人からしたら、非難の的になるわなぁ。でも、それもひとつの考え方だ。ただ、「自分を売り込むための宣伝コスト」が発生する可能性はあるだろう。
とはいえ、「仕事はあるけれども誰もやりたがらない」だとか、「法スレスレの仕事」というのは、そういった市場では浮くと思うし、そういった仕事はなくならないと思う。外国人で賄うのも、難しいのではなかろうかと思う。

「自由競争」の原則からすれば、売価は下げ放題だし、価格協定(カルテルだよね)は独占禁止法で禁止されている。でも、実はこれが、経済において全てを苦しめている原因なのではないかと、僕は見ている。賃金が上がらない、長時間労働といった理由は、賃金財源の問題と、企業が潰れるという不安感ではなかろうか。

人口減少が決まっている世の中、生活必需品が既に供給過多の時代で、あらゆる業態がファッションというか、流行を起こして購買を誘うという方向にシフトしているように思う。ただ、ファッション業界程、その流行の機運を生み出すシステムが成熟もしていなければ、循環性もない。「新しいもの」を求めてあっぷあっぷしているが、リスクはとりたくない。デッドロックを解く鍵は多分、いろんなところに散らばっているが、その鍵を拾うだけの力(資本や権限)がないか、あるいは鍵を回す勇気がないというのが現状だと思う。
手始めに、とりあえず「お客様」を甘やかさず(甘やかすのもサービス過剰にすることで仕事を増やした結果という側面もあるかもしれないですが)、きっちりいただいた売り上げを、社員の給料に還元していければいいのかなと思います。

あ、余談ですけど、賃金が増えれば子供を生みやすい環境になるのでは〜みたいな話がありましたけど、僕は養育費の大半を国が負担すればいいんじゃないかって思いますよ。現金じゃなく、学費にしか使えないクーポンとかで。
なんか今の世が、子供が「ぜいたく品」みたいになっていて、とっても気持ち悪いです。

小、中、高の12年間の学習について

知り合いに、勉強で若干躓いている中学生がいて、なんとかしてあげられたらなーと思っているところで、これ読みました。
http://blog.livedoor.jp/ganbare_zinrui/archives/12355210.html
以前別の子に、大学受験勉強をするにあたって、どうしたらいいですかというような相談があった際に、「時間があるなら、受験科目を中学くらいにまで遡って、その頃の問題を順番に解いていくと、一度やったところなので解ければ自信がつくし、解けなければ、そこを補強してからその大学の出題傾向に合った学習をすればいい」というアドバイスをしたことがあったのですが、まーそういうことですよね。英語、数学に関しては、過去の習得内容を使って、その先を解いていくので、ひとつそれが抜けると終わってしまいます。僕は、後チェックでできていないものが判明するというのも変だと思っていて、予め、例えば学期毎の、学習項目を伝えておいて、それがクリアになっているかなっていないのかを判別するための小テストということでいいと思います。
更に、その小テストで引っかかった場合に、誤解のパターンのどれに当てはまるのか、その誤解に陥らないためには、どんな気づきが必要なのか、経験とか曖昧なものではなく、こういうことを集合知で解決していけば、時間も短縮できるだろうし、その分、他のことの指導、学習に時間を割けるように思います。

  • 「文系」「理系」はおかしい

僕もあまり好きではないですが、「文系」「理系」という言葉があります。つまり、日本における高校教育は、半分の教科の知識を捨てること前提で、カリキュラムが組まれているということになりはしないかと、そう思うわけです。僕自身も、受験科目に絞って勉強しましたし。
受験制度のいけないところは多々ありますが、まずもってコレですね。

  • 小・中・高の、生活リズムモデルって考えてるの?

よく、勉強に専念する人が、一日の時間の使い方を考えていたりしますが、そのモデル的なものが存在しません。コレを作るとこは、だいたい既にヤバくなってから、逆算して計画を立てているパターンです。そうではなくて、平均的な地頭の人間が、では一日何時間机に向かうのか、週何時間遊んでいいのか、そういうのがあって然るべきだと思うのですが、いつも見せられるのは、「早く勉強を始めれば、一日勉強する時間が少なくて済む」という、保険の支払い金額表みたいな図ばかり。そうじゃなくて、学校以外での家庭学習の時間を、週換算で何時間必要だと見越しているの? ということが大事なわけですよ。平均値は、ベネッセとかが出しているんですが、知りたいのは「本当に必要な時間数」です。
http://berd.benesse.jp/berd/berd2010/center_report/data05.html

  • 必要時間がわかることでできる選択

これがわかると何ができるかというと、「何を捨てるか」の選択ができるということです。部活をやるならば学力を捨てることになるのか、遊ぶ時間を捨てればいいのか、テレビを見る時間なのか、友達とLINEする時間なのか、はたまた睡眠時間なのか、そういう24時間の使い方の選択が、実は学生時代こそ、プロスポーツ選手並に問われているように思います。若いときの時間は、学習に限らず、あらゆる面で貴重です。何故ならば、「若いときにしか与えられない機会」というものが、確実に、複数存在するからです。そのことに対して、皆無自覚過ぎると思います。

  • そもそも、学習に最適化された指導要領なのか

学校は勉強だけをするところではないといいつつも、勉強することに変わりはありません。ならば、個人で学ぶよりも効率よく、効果的である必要があるかと思うのですが、正直、そうは思いません。伝聞に過ぎませんが、僕らが学生だった頃と、あまり変わらない指導を受けているように思います。社会がこれだけ大きく変化し、例えば部活の指導の仕方も変わったりしているにも関わらず、です。塾が存在するのは、個人にあった学習、という以前に、時代に即して指導の方法を変えてきたから、なのではないかとも思います。

  • 学習のモチベーションを上げる施策は?

ひとつには、必要なシチュエーションをシミュレートしてあげることだと思います。例えば歴史と英語ならば、外国の日本マニアが、日本の歴史について根掘り葉掘り聞くというシチュエーションを想定するだとか、確率ならば、じゃんけんで最初に出すのが本当に1/3ずつきっちり分かれるのかの統計をとってみようとか、そういうのがあっていいのではないかと思うわけです。明日すぐに役立つかもしれないもの。どなたかが、日本のゲームは、努力と報酬がわかりやすく直結しているので、子供がハマると言っていましたが、それを使うというのがあるかと思います。
「それがテストという場なのではないか?」という人もいるかもしれませんが、それは多くの生徒にとってはNOだと思います。例えば部活の筋肉トレーニングに対する、それが実を結ぶ場としての大会と、テストとの間には、大きな違いがあるように思います。つまり、「テスト」という大人がやれと言っているゲームが、殆どの子供にとって、クソつまらないということです。テストはあくまでもテスト、筋トレにおける、年に一度の体力測定の場であればいいわけであって、体力測定のためだけに筋トレなんかしたくねーというのが殆どなのではないでしょうか。ということでの、実践の場が欲しいという話。
もちろん、実学だけ学べばいいというわけではないので、コンテンツとして知識を身につけるということは、もう一方でやるべきだと思います。別に、ゲーム、マンガから学んだから劣っているだとか、そういうことはないし、そもそも塾の古文の先生が、「まず大和和紀の『あさきゆめみし』を読んで内容覚えろ」って昔から言ってるのも、つまりは既存の教科書で不足しているものがあることを、語っているように思います。つまり教科書の内容は、もっと面白くできるということ。

  • 最後に

とまぁ、素人が考えても、これだけでてくるくらい「学校での学習体験」に改善の余地がありまくりだと思いますが、現状、その状況を生きている皆さんに置かれましては、その部分をいかに学校外の時間で補填するかだと思います。ひとつ言えるのは、どうせ学校の内容を復習するのならば、やるところを予習しといて、授業で指されても答えられるようにすると、ストレスが軽減するんじゃないかなということですね。あれだけ億劫だった、学校で習ったことを、大人になってコンテンツとして見ると、とても楽しく見られるというのは、やっぱりよくないと思うんですよねー。

罪の抑止

http://kamipro.com/blog/?p=16006
この記事に関して。
(※時間がない人は末尾のまとめだけ読もう)
犯罪に対して、当人がその原因について言及したときに、それが自己正当化だと認識されてしまうことに関してはわからなくもない。
しかし、それは逆説的に、ある犯罪が発生した背景を正しく把握して、再発を防止するという施策が甘かったということなんじゃないかと思う。
「罰則を科す法律を制定する」
そうすれば解決すると思っていた。
だけど、渡邊氏の言説を借りるなら、それこそお仕着せの恐怖による締め付けでしかなく、「何故やってはいけないのか」の根本的な理解に繋がらない。理解されなければ、「いかにバレずにそれを行うか」という方向に考える者だって現れるだろう。もちろん、剥き出しの悪意に対抗するための法は必要だし、行ったことの報いを受けるのも当然のことだが。
 
つまりは、これまでの日本の教育の方法論、マイナスを0にするために言うことを聞かせるというやり方が、大きく間違っていたということに関しては、昨今の教育論から照らし合わせてみても(子供に言ってはいけない〜とか)認めざるをえないんじゃないかということ。
少し陰謀論めいてしまうけれども、そうやって教育した人間は、言われたことの理由を問わないという習性があるように思う。「なんで?」「なんでも!」とか「どうしてですか?」「俺がそう言ってるからだ!」など、頭の悪いやり取りが繰り返されていたという事実は否めない。そしてそれが、為政者にとっては都合がいいだろうなということは、想像がつく。
 
「人材教育」などと言われ、誰しも子育てや、仕事で後輩に仕事を教える機会があるにも関わらず、伝達、教育のメソッドを習得させる機会がない。そして、「イノベーションだ」「コンテンツ産業だ」と声高に叫びながら、「何故?」という発想の芽を、プライマリーな教育の段階で多くの親や大人が詰みにかかる。
判で押したような、同じような人間が量産されることに対する警鐘は、結構以前から言われていたが、管理のしやすさという誘惑に、大人が負けたんだと自分は考える。
アインシュタインは科学で名を成したが、幼少期は問題児だったことで知られている。多くの人が、子供としてのアインシュタインを求めていない。自分の人生の優先など、いろんな理由はあるかと思う。
 
かなり話が脱線したが、要は犯罪というものがもし異常者が引き起こすものだと仮定するならば、「異常になってしまう理由を取り除かなければならない」というところに、やっと手がかかったような気がする。そしておそらくその「異常になってしまうことの回避」が、例えば日本が戦争に突入しないだとか、個々人の幸福の向上だとかに繋がっていくと思う。
その意味で、これからの社会学者の役割、そして責任は大きいと、個人的には思っている。政治家は専門家ではないので期待しない。きちんと専門家が青写真を描いて、そこに経済が絡むことで、こうした諸々は実現されていくように思う。正しく実現するには、警察やマスコミ等の力も必要だろう。
 
では、「あ、自分も渡邊氏と同じだ」と思った人はどうすればいいのか。人の人生なので「こうしろ」というのはおこがましいし、上から目線のように感じてしまうかもしれないけれども、誤解を恐れず言うのならば「正しくないと感じる習慣をやめること」が第一なのではないかと思う。実施すべき例を挙げると「自分を否定しない」「傷を何度も掘り返さない」「必要以上に他人を恐れず、必要以上に信用しない」「他人と自分を比べない」「壮大な目標を立てて絶望しない」「頑張っていいことと頑張ってはいけないことを見極める」「わからないことは信用できる人に聞く」そんな感じだろうか。
個人的には、まず「なんでもいいから自信をつける」というのがあって、フルマラソンをするのはどうかなと思っている。個人でできるし、世の人が思うほど大変でもない。その割に「凄い」と思われる、割とお得なアクティビティだと思う。心身相関で、ストレスも解消され頭がスッキリするし、疲労できちんと夜眠れるというオマケもついてくる。
また、自分自身をロジカルに分析することが、傷の軽減に繋がるだろうことは、渡邊氏のテキストを見ても感じるところだ。ただ、彼はこれまでの自分の発言や思考の筋を通そうとして、「自殺して終わらせる」という意識に囚われている感はあるけれども。
 
いつも長文だから短く纏めろと言われるので纏めると、
・犯罪は法を厳しくしたから減るというものじゃない
・犯罪が発生する根本原因の究明とその改善が必要
・今回の、根本理由が教育にあるという指摘は大きくは外れていない
(もちろん、抑圧された人間が100%犯罪を犯すということではない)
・教育に関して、各々がよく考え、見直さなければならない
・根本原因の究明、改善というプロセスは、犯罪抑制以外にもメリットがある
・これらを正しく実施するためにも、社会学者の活躍と、各公器の協力が必要
・渡邊氏と似たような境遇だった人は、とりあえずフルマラソンしたらいいかも
 
そんな感じ。
ラソン大会でお会いしましょう。

積極的な平和の話

警察官って職業があるじゃないですか。その警察官、凶悪な犯罪に直面した際に、相手を殺さねばならない場面が、ないとはいえないよね。警察官、別に好き好んで引き金を引くわけじゃない。
テロルってのは犯罪なわけだよね。で、紛争地域の警察機構が機能しないから、外の国の軍隊が介入するというのが、平和維持活動だよね。
なんで人殺しが平和維持やねんとか、まだ思う人もおるかもしれんが、何もしないと民間人が死ぬからですね。さっき書いたけども、統治の始まりが、民間人への略奪からの防衛からだったいうことと同じ。で、現地の統治者がいないから、外から統治者になりに来ていると。ただ、あくまで防衛目的だから、「やられたらやり返すけど、お前らの扮装には関わらないよ」というのが基本的なスタンス。
アメリカとかは、同盟関係等の問題で、一方に加担しちゃったりするから、その同盟国である日本も、アメリカがついている側に加担しているように見られてしまうと、そういうことね。
ひとつのやり方としては、もうアメリカとの安保条約を切っちゃうってやり方ね。上手くやれば、いろいろ好転する可能性はある。もう完全に安保がボトルネックになっている感は否めないから。
ただ、それをするには、隣国があまりにもあてにならないし、なんかちょっと親しくなったなーと思ったロシアも、クリミアの問題で手を切らざるをえなくなった。なので、そのカードを切るには、ちょっと時期尚早。ロシアと仲良くなって、台湾がなんか中国に取り込まれそうっていう現状から脱して、もっと東南アジア諸国との国交がしっかりしたら、その選択肢も見えてくると思う。アメリカ落ち目だし。
話を戻して、「なんで他所まで行って」ってのは、「じゃあ誰がやるの?」だし、「そんな、日本人じゃなくても……」ってのは、「日本人でなければ死んでも構わないのか」となる。「日本人でなければ死んでも構わない」という人と、戦争のときに外国人に向かって引き金を引く人と、何が違うのかという話。確かに、今の日本は近所の惨事に無関心だし、親族で殺しあったりする、割とダメな状態だけども、それを肯定してしまったら、「人道とは?」って話だよね。
誰だって死にたくはないし、傷つきたくはないんです。殺すくらいなら殺されるなんて人は、単に殺すことで自分が罪の意識に苛まれるのが嫌なだけです。そんなん、誰だって嫌なんですよ。好き好んで人を殺す人なんて、凄く稀です。
 
とまぁ、つきつめるとそうなります。
例えば、巨大な船を作って、紛争が一段落するまで、難民が一時的にそこで暮らせるようにしよう。という絵を描いたとしたら、それもひとつの解決策です。
日本のコンテンツを中国や韓国の人に気に入ってもらって、政府同士がいがみ合いを演出することで内政をまとめようとしても、それに踊らされないようにしよう、っていうのもひとつの解決策です。これは、なんだかんだ既にやってるんじゃないかな。
「相手を撃つのか、自分が撃たれるのか」
そう聞かれて、どちらかを選択したら負けなんです。
「武器を捨ててハグします」
例えばそんな答えを出せる人だけが、未来を作れるんだと思います。

政治が何かをダイナミックに改善するということはないという話

キナ臭さ大爆発の昨今、いかがお過ごしでしょうか。
さてさて、ポリティックな問題に対して、「政治を変えよう」というのがあるかと思いますが、僕にはそれが、「よし、北海道から九州まで、歩いて行こう!」って言っているように聞こえます。遠くて遅いんですね。無意味とは言いませんが。飛行機使おうってことを言いたいわけですね。
何でかっていうと、政治ができることって、対症療法だからです。問題の根本は解決できません。「法」とは、いつも後手のものなのです。

  • 政治は後手のもの

そもそもの歴史として、統治がどのように始まったかといえば、農園所持者が略奪に悩まされるなか、そのあがりの一部をくれたら、お前らを守ってやるよと始まったのが、統治の始まり。つまり、最初から、問題解決の手段としての統治だったわけですよね。逆に言えば、問題がなかったら、統治の意味はないということになります。

  • ずっと後手だけだったのか

かつてはもう少し、政治の役割として日本全体をどうするかということを、戦略的に行っていた感がありますが、それはつまり、ある業種を優遇するということにもなってしまいます。悪平等が蔓延りまくっている現在の日本では、もしそれを行うならば、上手く国民をだまくらかしてやるしかないです。現状は、大企業の優秀な社員さんが、上手いことやっているという印象です。ここは、政府がそういった企業を見放すと、企業が自身の利益を守るために、どんどん海外進出して、税収が落ち込み、働き口が減るという事態を招くので(実際そうなってる)、程々に政府も優遇したりしなければならないわけですが。

  • とはいえ、政治に関心は必要

ここまでの記事とか、あるいはとぅぎゃっちのこれとかを見て、だったら大きな枠のことは他人に任せて考えないようにしよう、というのはまた危険です。
法は後手ですが、法には拘束力があります。国や自治体の決定というのは、かなり大きなことです。それに対する監視は必要です。じゃないと、いつの間にか「政治家は世襲制」なんてことになってしまいますし(もう半分くらいなってるけど)西宮ではおかしな議員が誕生するわけです。
結局、人間は堕落するものですし、働きアリの理論で、必ずサボるヤツが出てきます。それはもう、仕方がないことです。
腐敗などといいますが、知り合いが困っていて、便宜を図ったら不正になったとか、実際はそんなことも多々ありますし。

  • ではどうしたらいいか

これはもう、完全に妄想の域なんですけど、折角webという実験場もあるわけですし、仮想でそれこそ、憲法を作るところから、税金、教育など、全てのもので仮想社会を作って、それが現行のものよりも上手くいきそうだ、となったら、思い切ってそれに乗り換える、というやり方が早いように思います。今あるものを変えるには、あまりにもしがらみが複雑に絡み合い過ぎています。あちらを立てればこちらは立ちません。
 
そんなわけで、いずれ夢と希望に溢れた、「俺の考えたすげー日本」みたいなのがまずあって、現実でボコボコになりつつも、「自分達で選び取った責任感」を持った社会に、未来の人が暮らしていけるようになれたらいいねと思いました。