夢を見ることと、敗者に対する世論は作る時代じゃないかなーという話

http://derorinkuma.com/colam/57463
まー、「サッカーやるだけで稼ぎやがって」みたいなやっかみとか「出る杭は打たれる」と、目立つものを槍玉に挙げて溜飲を下げるのは、確かにいただけないなーとは思う。これは、そういった非難をする側を見たときに。なぜなら、かっこわるいから。やっかまれる側は、多少そういうのがあった方がいいんじゃないかな。傲慢にならないようにということで。

夢を追うということにリスクを伴うというのは、サッカーに限らず現実としてあるので、それはそれとして受け止めるべきだと思う。ミュージシャンだろうが役者だろうが、生活は安定しないし、じゃあ夢を追っているんだからお前ら支援するのかって話だ。そういうもんでもない。既存のルールに則って、夢を描くから認められるわけだ。
こんなにバッシングされたら萎縮して後が続かなくなる! という危惧があるようだけど、その程度で諦める夢ならば、早々に諦めた方がみんな幸せなので、むしろいいかもしれない。
他人にあーだこーだ言われたくらいでくじけるような夢なんて、所詮その程度の夢だし、その程度の覚悟なんだと思う。日本代表の選手も、こんなことでくじけたりはしないと思う。

また、大口を叩いたヤツが非難されるのも、それほどおかしな話ではない。上記の通り、「調子に乗っているんじゃないか?」という危惧があるからだと思う。一方で、その大言壮語は、現実化すれば有言実行になるだけの話。勝ったら「○○が目標は優勝って言ったから、士気が上がった」とかになるわけじゃないですか。結果が全てというのが、プロスポーツの厳しさだし。あんだけ目立つんだからやっかみも当然ある。日本人は本当に目立つヤツが嫌いだからなー。そこは良くないと思うよ俺も。

「夢として現実的な目標を掲げれば、このようなバッシングは起きない」という人もいるだろうけれど、「言ってしまった手前、やらざるを得ない」的に、自らを追い込んでいく手法もまたあるので、その側面から言うと、「期待を裏切られた!」くらいは言ってあげるのが親切だと思う。つまりは、期待していたことの表明であるし、適度の悔しさを与えるからだ。何も言わない、大して期待もせず、訳知り顔でいる人だとか、そもそも興味がない人とかの方が、実際は彼らにとってマイナスのような気がする。暴言を吐いている人は、単にその期待が行き過ぎて感情のコントロールができなかったり、厳しい論調の尻馬に乗っかっているだけなので、気にすることはないというか、こう世論というか、日本人の総体としての、「行き過ぎた非難」「正当な非難」「頑張ったことを認める声」「無関心」のバランスだと思う。多分、「行き過ぎた非難」を潰すよりも、「正当な非難」「頑張ったことを認める声」を発することで、「無関心」を減らしてバランスをとることが、彼らにとってはよりプラスになるような気がする。

それと、現実的な目標を掲げると、その現実的な目標の少し手前で失墜しやすい(現実的な目標に手がかかったときに、5割くらいの勝率に計算してしまう精神状態になったりするという意味で)ということは実際にあって、なので非現実的な高い目標を掲げるというのは、別段悪くはないと思う。つまりは、「それくらいの気概で臨め」っていう鼓舞だし、宣言。ただ、だからと言って、非現実的な夢の決勝戦ばかりにフォーカスした準備をするとかは、もちろんナンセンスだ。
これは、仕事上で出来もしないことを「できます」って言うこととは、根本的に違うことだと思う。冬季オリンピックスティーブン・ブラッドバリーのようなことは、実際に起こるわけで、そういう意味でも「狙っていく」ことが大切だと思う。

そんなわけで、行き過ぎた非難をする人を見たら、「よくやった!」という記事を書けばいいし、なんか全体的に「よくやった!」論調で甘やかしてる感があるなと思ったら、批判的な記事を書けばいいと思う。
大切なことは、その記事が面白くて、サッカーに関心を持つ人が増えることだと思う。
ま、このテキストが面白いかどうかは、また別の話ねw

議員の野次と、その議員を選んだ有権者の話

野次の面白さはわかる。
例えば授業のチャチャ入れは、それが教師を唸らせる内容だったり、生徒を笑わせられるレベルであれば、受け入れられるもので、それができなかったら怒られたり冷笑を受けたりという、本来はリスキーなもののはずなわけだ。
昨今、議員が飛ばす野次は、都議会だろうが、国会だろうが、下の下で面白くもなんともない。しかも、誰が言ったのかわからないように言うなど、卑怯でしかない。
セクハラとか、そういう次元以前に、自分の発言に責任を持たないのは、人としてどうなんだろうか。Web上で匿名でやっているわけでもなくて、自分の名前を出して議員に当選したわけなんだし。

同時に、そういった人物を当選させてしまったことへの責任もまた、有権者は持たねばならんと思う。投票するときに、きちんとその人物を見て投票したのかとか、○○党だからと、党の論理だけで投票してしまわなかったとか。

そして投票所に行かなかった人は、こういった議員が当選するという事態を、消極的に肯定してしまうことに対して、本当にそれでいいのかと、自らに問うて欲しい。「何もしない」ということは、「選択をしなかった」わけじゃない。「何もしないこと」を「選択してしまった」のだ。

経済活動と芸術

芸術作品に金を払わんとか、プロだからこそ、きちんとお金を取りましょうという話がありました。
何故報酬を貰わなければならないかといえば、そこで報酬が適切に発生しない場合、負の価格競争が始まり、その分野全体がマイナスになってしまうからです。アニメの制作が、最初に格安で作ったが故に、厳しい環境を強いられているということは、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。原作や権利ビジネスは儲かるかもしれないですが、制作、BDディスクとか売れないと殆ど儲かりません。

こういったものの売買に関わる問題は、いくつかポイントがあります。
なかには、経済活動全般の問題も含まれますが。

  • 心意気や信頼

値段表示がない寿司屋ありますよね。それは、ネタの単価ではなく、「心意気」だとか「信頼」で取引をするからだと思います。つまり、誰でも一律に同じ値段ではなく、そこに付加価値がある、ということですね。また、要求額に対して、「釣りはいいよ」というのも、こういうことに含まれるかと。上方修正の限りにおいて、買い手が値段を設定してもいいということです。

  • 「購買」とは「投資」でもあるということ認識の不足

これは、「お客様は神様」気質で、供給側が努力で何とかするのが当たり前という、際限ない価格競争を肯定している部分があるからだと思います。自身の労働の場においても、人件費削減、コストカット、ということばかり言われているなかで、それをあらゆる経済活動に適応しようという思考もわからなくはないですが、例えばその業界が共倒れになったりだとか、失業者が出たりだとかが発生し、そのために税金を投入されたりするのだとすれば、結果間接的に損をすることになるわけですが、ということに無自覚なんだと思います。
アイドルのCDの売買などは、この部分を露骨に見せて煽っていますが、特典をつけることで、「適切にお金さえ払えばサービスを受けられる」という、従来的な購買になってしまうこともあるので、どこまでが「買い支え」なのかというのは難しいところです。

  • 生活必需品ではないものに、価値を見出さない人がいる

確かに、第一次産業のような、必須性はないですが、豊かな人生に必要だという感覚は、なかなか一般化されるものではなかったりします。

  • 生産(制作)の構造に対する無理解

あらゆるものは、いきなり商店に並ぶのではなく、作り手が存在しますが、その作り手の存在や、作り手の生活まで想像が及ぶ人は少ないです。目の前の商品と価格しか見ない人が大半だと思います。音楽も、youtubeで聞けるからいいとしてしまったら、音楽を提供している人達の生活は? と本来ならなるわけですが、そのことに対して、「自分でない誰かがなんとかしてくれる」という、漠然とした、消極的人任せになっていることが多々あるように思います。

  • 上記を考えることが面倒くさい

これが一番決定的ですが、考えずとも影響がないのだとすれば、多くの人が考えない、考えても深くは考えない、ということが多いように思います。政治について、とかが顕著ですけども。
こういった複合的な要因で、「購買」、あるいは「経済活動」が、歪められてきているように思います。
あなたの好きなものにお金を払い、そのことについて考え、ときに意見を言ってください。それが、あなた好みの世界を継続させたり、生み出したりするはずです。

人口増減とライフコスト

日本人として、「人口1億2000万」ってのが割と普通に感じているところがある。しかし、江戸後期から明治初期まで(つまりたかだか140年前くらいまで)、日本の人口は3000万人くらいだった。
他の国を見てみると、イギリスが1870年に3000万だったのが、今は6000万、他のヨーロッパ諸国もだいたい同じで2倍程度。
移民系の国、アメリカ、オーストラリア、ネーデルランドなんかは、出生率だけではなく、流入で人口が増えているので大きく人口が増えている。
世界人口は、1870年と比較して5倍以上(12億から66億)
その人口増に一気に転じた国としては、アジア、アフリカの途上国。なかには、10倍近い増え方をしている国も。(タイとか)
産業革命などによる生産性の向上が大きな要因。だから、早期に産業革命を体験している欧州は人口がそこまで増えない。またイギリスを例にするならば、18世紀の後期に産業革命があったわけだけども、1700年の人口と1800年の人口では、倍以上違う。
でもって、今人口減になっているポイントとしては、人が生きていくうえでの、ライフコストが、生産性向上のスピードを上回ったことにあると思う。暮らしの必需品となっているもの、家電や通信費、食の安全に対して払うお金、医療やインフラ、治安など、社会保障関係。そういった「手厚い保障」が、人が一人ただ生きていくことにかかるコストを跳ね上げている。
ブータンはこの辺割り切って、社会保障とかじゃなくて、心の平穏を重視しようぜみたいな方向に舵をきってる感ある。同様に、生産性の向上も、さほど進めていないようだけど)
あ、ちなみに見たのはここです。
http://www.geocities.jp/kingo_chuunagon/kikaku/kokuryoku.html#population
個人的な感想だと、「オプションで」みたいなかたちで費用が嵩んできた感があるけども、いずれも多くの人が「欲しい」と望んだ保障でもあるので、なんともといった感じ。
今問題になっているのは、実は「人口減」ではなく、「人口における非労働者増」なんだと思う。年齢や、ドロップアウトすると復帰できないような社会の仕組みだとかそういうもの。
なので、まぁ我々の世代も含めですけども、定年後に、誰でもできるような仕事に再就職するという事態は、避けられないんじゃないかなー。で、それを行うためにも、仕事を高度化しない、個人の能力に大きく依存しない仕事を増やすということを、していかなければならない気がしています。なんでもいいから働かせて、働かせることで資産を分配しつつ、税金を徴収するということですな。
それともう一つ、人口として、どのくらいが適正なのか、あるいは、ライフコストと生産力がつりあっているかという試算って、これまでされているのかなーというのがあります。さっき挙げた、人が一人生きていく際にかかるコストと、生み出す生産力とのつりあいなど、計算すれば割と出てくる数値のように思います。それを指標に、では社会保障をある程度切り捨てて負担減をした方がいいのかなどの判断材料にしていければいいんじゃないかと思います。
ま、それって選挙での得票を勘案しない、純粋な「政治家」がいないと、使えないものですけどね。

時間貧乏が欠いた「衣食足りて礼節を知る」

なんか、「東京の人は冷たい」みたいなことをいくつか目にしたので。
まず、自分の体験からして、街中で話しかけられたらビックリする。
何故ビックリするかといえば、そういうことがあまりないから。
では、なんでそういうことがないのかと考えると、そこには「お時間の有限性」ってのがあるように思う。
東京の交通は、分刻み、秒刻みだ。例えば、そんな状況で1分相手の足を止めることで、実質10分遅らせてしまうことというのは珍しくない。横須賀線ユーザーとしては、その1分の差で、21分待たされる、なんてことすらある。その後の接続があれば、更に遅れるかもしれない。また、携帯で接続を確認しなおす作業も発生するだろう。つまり、生活が厳密にチューニングされすぎている。だから、電車が遅れた、雪が降ったで、あれだけ大騒ぎになるわけだ。
そして、その厳密さは労働の場はもとより、日常に深く浸透している。
 
では今度話しかける側。
話しかける側は、落としたものを拾ってくれる以外、基本的に何らかのトラブルだ。そして、都会に於いては、そのトラブルを解決するエキスパートがいる。つまり、交番の警官、駅の駅員、地下街や商業施設のインフォメーション、ホテルのコンシェルジェだ。通り過ぎる人たちは、都会で生きるコストとして、そういったサービスへ間接的にお金を支払っているという見方もできる。
ともかく、ボランタリティーが介在しないで、ほぼ様々なことが自己解決できる、理屈上ではとても理想的なことが実現されている。
故に、誰かから話しかけられるということは、(商業的勧誘を除いて)純然たるベネフィット(それは「楽しみ」とか些細なものでいいのだが)のためでなくてはならないということになる。
今しがたも、会場への案内がないため、歩行者の交通が滞っているという話題が出た。
これは、「誰かが教えればいい」ということではなく、極度にチューニングされた東京という都市の風景の中では、「あってはならない事態」となる。つまり、そこの整備も含めたうえで、俺達は料金を支払っているのだという意識がある。
 
今度は、サービスを提供する側。
サービスを提供する側は、常にジレンマがある。それは、いかに利益を上げ、コストを抑えるかと、いかに完璧なサービスを提供するかだ。
ある会社がサービス案件を受注したとしよう。その業者は、依頼された業務に加え、付帯する業務まで請け負うからということで、高い請求を実現できた。そのとき、ではその付帯業務でトラブルが起きたとしたら、「欲をかくからだ!」ということにはならないだろうか。その意識は、自覚的にも無自覚的にも、流布されているように思う。
とかく、東京は全てにおいてピーキー過ぎて、失敗に全く寛容ではない。それは、自分の失敗に対しても、他人の失敗に対しても。しかし、だからこそ完璧なサービスを追及できているという側面はある。3分間隔で公共交通機関が動き、他社の交通機関の遅れに対応するなど、なかなかできることではない。
 
フランクに話しかけていい時間とは何か。
それは、「お時間の有限性」がないタイミングだ。
例えば飲んでいる時間などがそうだろう。あるいは、休日の予定のないとき。
ちなみに、遊園地などはかなりピーキーにスケジュールがチューンされている人が結構いるため、この限りではない。

人に話しかける、あるいは人の話を聞くなどのボランタリティは、結局のところ正確なものがある程度ルーズになってしまうこととトレードオフになっているように思う。とはいえ、その時々で、必ずしもピーキーにチューニングされているソリッドな生き方が、正解ではないタイミングも出てくる。あるいは、例えば家を出る時間を早める、時間の余裕を持って行動する、自分の計画が崩れることに寛容になるなどで、都会にいながら、ピーキーさから外れることもできると思う。(ブラック企業などの場合は無理だけど)
そういう余裕が出てやっと、日常でも誰かに話しかけられても対応できたり、他人を気遣う余裕が生まれてくるんだろうと思う。
現代の都会人、特に東京近郊の人たちは、様々なオートメーションで稼いだ時間を、結局全部使いきってしまう、時間貧乏が多い。

躾とか性悪説とかゲームの話

教育って、洗脳よねってのは、たまに耳にする。
実際、躾とかの方法論って、逆算してみると、「うわー、心理学でやったわーそれー」ってのが結構使われてたりして、「うっ」と思うこともままある。条件付けとかがまさにそうね。パチンと手を鳴らしたら、もうおしまいってことにするとかそういうの。これ、パブロフの犬とかとそんなにやってること変わらないからね。ランプ点いたら涎が出てくるっていうアレ。
躾をしない親っていうのは、多分この「うっ」ってところで、「これって本当に正しいの?」となってしまっている部分がいくらかあるように思っているし、なってしまうところまでは、それはそれでおかしな反応ではないとも思う。
問題は、きちんと突き詰めて考えるところまで至らないことなんじゃないかなー。

日本はなんだかんだ、子供=「無垢」という観念があって、性善説が蔓延っているように思う。僕はこれ反対。そもそも、「無垢」は仏教用語で「欲望や執着などの煩悩から離れていることを指す」んだそうだけど、仏教発祥の地インドは性悪説なわけですよ。性悪説ってのは、性善説の逆。分別のない子供の頃は、無意味に虫を殺したり、お腹が空いたら泣き喚くし、興味欲望のままに生きているけども、大人になって分別を身につけていくことで、善に近付いていくもんだよね、という考え方。つまり、「無垢」は、生まれたときに備わっている能力ではなく、悟り行き着く境地のはずなんですな。
一方、辞書の用例で、「純真無垢の赤子」みたいな使われ方をしていたので、この辺の根は深いなーと思うんだけども。

別に教員資格も持ってないし、自分が絶対正しいですかと聞かれると「えへっ」って思う自分が、そんな「洗脳」っぽいことしていいの? 野性の獣みたいに、本能的になんか正しく育つんじゃないの? ほら、「親はなくとも子は育つ」って言うじゃん? っていう気持ちもわからなくはないというか、本当に都合のいい言い訳の言葉ばっかり後世に残すよなクソがって思ったりしますけれども、逆に考えてくださいな、あなたがしないで誰がするの?
だってほら、それこそ子供なんて、ほとんど親の姿しか見てませんし、既に親の一挙手一投足がもう教育であり、洗脳なのですよ。今更「オラ洗脳なんかしたくねぇ」って言っても遅いのです。自分を見て戸惑う姿も、しっかり子供は記憶しているはずです。それが『正しい/当たり前のこと』として。
親になったからといって、いきなり聖人君子にレベルアップできるわけでもないので、そこで要点をまとめたり、簡単に感情を制御できたりする方法論を、人は「躾」と呼ぶわけで、それが心理学的手法を持っているのは、ある種必然でもあるんですけどね。

「自由にのびのび育てたい」という言葉に寄りかかったりするのは、「自由って何?」とかを突き詰めて考えてからがよろしいと思いますよ。だってほら、自由に無銭飲食すると前科者になっちゃうじゃないですか。自由に人殴ると、返り討ちに遭って死んだりしますし。
そういうのは、多分「興味を妨げない」とか、「やっていることに理解を示すor容認する」とかが、「自由にのびのび」に繋がると思うんですけど、そのためにはやっぱり、いきなり同年代の子に殴りかかったりしないとか、社会性を身につけさせないと、詰んじゃうと思うんですよね。
そういう意味では、「非コミュ」だけは、唯一親としては直さないといけない特性なのかなーって思います。

はい、ながーい前置き終了。
で、ゲームなんですけど、そもそもゲームがどんなもんなのかをわからないまま、というか、ゲームをやったこともないのに、幼児にゲーム与えるっていうのが、僕は違う気がしました。
まー、うちの親もゲームしなくて、ゲーム禁止されてたんですが、従兄弟が持ってたんですね。多分、素直に買ってもらっていたら、ここまでハマらなかったと思います。小3ときに、従兄弟が譲ってくれることになってヒャッハーしましたが、まー10歳程度が自我の萌芽らしいので、結果妥当だったのかもしれませんねー。
子供に押し切られて買うにしても、それが興味ないとしても「やってみる」ことは、とても重要だと思うんですよね。やらないと、子供がゲームの話してもわからなくないですか? ディスコミュニケーションですよ?

ゲームにまつわる云々としては、他でもたくさん言われてるけども、
・前述の通り、躾、作法を身につけたうえでのゲームでしょ? TPOを守るだとか、時間を決めるとかは当たり前じゃない? ごはん中にやらないとかそういうの
・そもそも何かに役立てるためにやるものではない。というか、世の中のものは大概役立てようとすれば役立つし、その気がなければどんなありがたい本の内容も忘れる
・世界の国の名前を全部覚えるのと、ポケモンの名前全部覚えるのでは、後者の方が難しいし、両方とも大して役に立たないが、記憶力は鍛えられるかもね
・例えば運動部に所属して結果が残せなかったとして、その時間を無駄と言い切るのか? とか、格ゲーでチャンプになる人をどう思うとかあると思う
・ゲームは一人でやるものとは限らないし、一人でやるものだとしても仲間との話題になる可能性はある
・知識に寄与するゲームもあった。信長とか、桃鉄とかは言わずもがなだけど。勿論、勉強のためにゲームをやった覚えはない
・ゲームに使われている元ネタというところに注目すると、格段に世界が広がる。これは、テレビとか映画の見方みたいなところにも言えるけど(だからテレビを見ることは悪いことじゃないと思う)
・作る側の方に意識がいくこともある。ツクール系とかやってみて、バランス感覚の難しさを体感するとかある
・少なくとも、「ゲームの世界がある」という体験は、やり続けるかどうかは別としてあっていいと思う
・年齢に相応しいゲームというものはある。そのための対象年齢設定だし、そこを意識しないで与えるとかは違うと思う
・ゲームはベビーシッターではない
スマホとかiPadとか渡したら、結局それゲーム渡したのと変わらないよ?
・「はいゲームやめて」って言うけど、パチンコやってて確変ひいたときに、「あ、約束の時間だ!」って止められる? 電話して「遅れる」って言っちゃうよね? その理解もしとこう
・ゲームばっかりって、ゲームよりエキサイティングな体験を他に提供できていないだけなんじゃないの?
・僕は映像作品と同じように、総合芸術的な視点で見てますよ
アナログゲームもあるので、そっちもやったらいいんじゃないの?

こんな感じ?
やってみた結果生理的に受け付けないから、自分の子供にはやらせたくないってのは、それはそれで一つの答えではある。だけども、結局それに触れる機会があることとかは、もちろん考慮に入れなくてはいけないことだと思う。自分がどうしても理解できないなら、理解できる人に講釈を頼むって手もあるしね。
生理的に受け付けなかったとしても、それを楽しむ人、そこに携わる人への配慮はあってもいいと思う。それができないならば、教育としては不十分としか言いようがない。「有意義な時間の使い方について、考えてみようか」で十分だと思う。

飾られたネガティブ

「初志貫徹」
「諦めない」
「意思を曲げない」
「ブレない」
「徹頭徹尾」
「頑ななまでに」
上記の言葉、ポジティブに聞こえますでしょうか。僕は、とても「ネガティブ」だと思います。
これらの言葉は、「日本人が美徳だと思い込んでいる悪徳」だと思っています。
どういうことなのかと言いますと、自分の中のネガティブなものを隠すことに使われがちな言葉だということです。
こういった言葉の背景には、「融通が利かない」「人の話を聞かない」「それが間違っていても意見を変えない」「謝らない」といったものが、あまりにも多く含まれているからです。自分を飾り過ぎです。
結局のところ、自分の体面を保ちたいだけに過ぎないと思います。
間違っていたと思ったら謝って改める。人としての基本だと思いませんか。それをできずに、「諦めない」とか、ちゃんちゃらおかしいと僕は思います。
様々な経験を重ねれば、あるいは大人になって、老いていけば、人は変わっていきます。ある情報を知ることによって意見が変わるというのは、そんなに変なことなのでしょうか。情けないことなのでしょうか。
僕には、それが間違っていると薄々気付きながら、引くに引けなくなって固執する姿の方が、よっぽどみっともないと思います。
変わること、改めることに臆病な自分を正当化するために、これらの言葉を使わないでください。
自分の小さなプライドのために、情報を曲げないでください。
「そのような情報があるのですね。失礼致しました。そういった情報を再度こちらでも収集して、再度この問題に関して検討したいと思います。見識が浅いままの言及、申し訳ございませんでした。ご意見ありがとうございました」
っていうほうが、何十倍、何百倍もかっこいいです。
僕が思う「大人」っていうのは、それができる人物のことです。