時間貧乏が欠いた「衣食足りて礼節を知る」

なんか、「東京の人は冷たい」みたいなことをいくつか目にしたので。
まず、自分の体験からして、街中で話しかけられたらビックリする。
何故ビックリするかといえば、そういうことがあまりないから。
では、なんでそういうことがないのかと考えると、そこには「お時間の有限性」ってのがあるように思う。
東京の交通は、分刻み、秒刻みだ。例えば、そんな状況で1分相手の足を止めることで、実質10分遅らせてしまうことというのは珍しくない。横須賀線ユーザーとしては、その1分の差で、21分待たされる、なんてことすらある。その後の接続があれば、更に遅れるかもしれない。また、携帯で接続を確認しなおす作業も発生するだろう。つまり、生活が厳密にチューニングされすぎている。だから、電車が遅れた、雪が降ったで、あれだけ大騒ぎになるわけだ。
そして、その厳密さは労働の場はもとより、日常に深く浸透している。
 
では今度話しかける側。
話しかける側は、落としたものを拾ってくれる以外、基本的に何らかのトラブルだ。そして、都会に於いては、そのトラブルを解決するエキスパートがいる。つまり、交番の警官、駅の駅員、地下街や商業施設のインフォメーション、ホテルのコンシェルジェだ。通り過ぎる人たちは、都会で生きるコストとして、そういったサービスへ間接的にお金を支払っているという見方もできる。
ともかく、ボランタリティーが介在しないで、ほぼ様々なことが自己解決できる、理屈上ではとても理想的なことが実現されている。
故に、誰かから話しかけられるということは、(商業的勧誘を除いて)純然たるベネフィット(それは「楽しみ」とか些細なものでいいのだが)のためでなくてはならないということになる。
今しがたも、会場への案内がないため、歩行者の交通が滞っているという話題が出た。
これは、「誰かが教えればいい」ということではなく、極度にチューニングされた東京という都市の風景の中では、「あってはならない事態」となる。つまり、そこの整備も含めたうえで、俺達は料金を支払っているのだという意識がある。
 
今度は、サービスを提供する側。
サービスを提供する側は、常にジレンマがある。それは、いかに利益を上げ、コストを抑えるかと、いかに完璧なサービスを提供するかだ。
ある会社がサービス案件を受注したとしよう。その業者は、依頼された業務に加え、付帯する業務まで請け負うからということで、高い請求を実現できた。そのとき、ではその付帯業務でトラブルが起きたとしたら、「欲をかくからだ!」ということにはならないだろうか。その意識は、自覚的にも無自覚的にも、流布されているように思う。
とかく、東京は全てにおいてピーキー過ぎて、失敗に全く寛容ではない。それは、自分の失敗に対しても、他人の失敗に対しても。しかし、だからこそ完璧なサービスを追及できているという側面はある。3分間隔で公共交通機関が動き、他社の交通機関の遅れに対応するなど、なかなかできることではない。
 
フランクに話しかけていい時間とは何か。
それは、「お時間の有限性」がないタイミングだ。
例えば飲んでいる時間などがそうだろう。あるいは、休日の予定のないとき。
ちなみに、遊園地などはかなりピーキーにスケジュールがチューンされている人が結構いるため、この限りではない。

人に話しかける、あるいは人の話を聞くなどのボランタリティは、結局のところ正確なものがある程度ルーズになってしまうこととトレードオフになっているように思う。とはいえ、その時々で、必ずしもピーキーにチューニングされているソリッドな生き方が、正解ではないタイミングも出てくる。あるいは、例えば家を出る時間を早める、時間の余裕を持って行動する、自分の計画が崩れることに寛容になるなどで、都会にいながら、ピーキーさから外れることもできると思う。(ブラック企業などの場合は無理だけど)
そういう余裕が出てやっと、日常でも誰かに話しかけられても対応できたり、他人を気遣う余裕が生まれてくるんだろうと思う。
現代の都会人、特に東京近郊の人たちは、様々なオートメーションで稼いだ時間を、結局全部使いきってしまう、時間貧乏が多い。