躾とか性悪説とかゲームの話

教育って、洗脳よねってのは、たまに耳にする。
実際、躾とかの方法論って、逆算してみると、「うわー、心理学でやったわーそれー」ってのが結構使われてたりして、「うっ」と思うこともままある。条件付けとかがまさにそうね。パチンと手を鳴らしたら、もうおしまいってことにするとかそういうの。これ、パブロフの犬とかとそんなにやってること変わらないからね。ランプ点いたら涎が出てくるっていうアレ。
躾をしない親っていうのは、多分この「うっ」ってところで、「これって本当に正しいの?」となってしまっている部分がいくらかあるように思っているし、なってしまうところまでは、それはそれでおかしな反応ではないとも思う。
問題は、きちんと突き詰めて考えるところまで至らないことなんじゃないかなー。

日本はなんだかんだ、子供=「無垢」という観念があって、性善説が蔓延っているように思う。僕はこれ反対。そもそも、「無垢」は仏教用語で「欲望や執着などの煩悩から離れていることを指す」んだそうだけど、仏教発祥の地インドは性悪説なわけですよ。性悪説ってのは、性善説の逆。分別のない子供の頃は、無意味に虫を殺したり、お腹が空いたら泣き喚くし、興味欲望のままに生きているけども、大人になって分別を身につけていくことで、善に近付いていくもんだよね、という考え方。つまり、「無垢」は、生まれたときに備わっている能力ではなく、悟り行き着く境地のはずなんですな。
一方、辞書の用例で、「純真無垢の赤子」みたいな使われ方をしていたので、この辺の根は深いなーと思うんだけども。

別に教員資格も持ってないし、自分が絶対正しいですかと聞かれると「えへっ」って思う自分が、そんな「洗脳」っぽいことしていいの? 野性の獣みたいに、本能的になんか正しく育つんじゃないの? ほら、「親はなくとも子は育つ」って言うじゃん? っていう気持ちもわからなくはないというか、本当に都合のいい言い訳の言葉ばっかり後世に残すよなクソがって思ったりしますけれども、逆に考えてくださいな、あなたがしないで誰がするの?
だってほら、それこそ子供なんて、ほとんど親の姿しか見てませんし、既に親の一挙手一投足がもう教育であり、洗脳なのですよ。今更「オラ洗脳なんかしたくねぇ」って言っても遅いのです。自分を見て戸惑う姿も、しっかり子供は記憶しているはずです。それが『正しい/当たり前のこと』として。
親になったからといって、いきなり聖人君子にレベルアップできるわけでもないので、そこで要点をまとめたり、簡単に感情を制御できたりする方法論を、人は「躾」と呼ぶわけで、それが心理学的手法を持っているのは、ある種必然でもあるんですけどね。

「自由にのびのび育てたい」という言葉に寄りかかったりするのは、「自由って何?」とかを突き詰めて考えてからがよろしいと思いますよ。だってほら、自由に無銭飲食すると前科者になっちゃうじゃないですか。自由に人殴ると、返り討ちに遭って死んだりしますし。
そういうのは、多分「興味を妨げない」とか、「やっていることに理解を示すor容認する」とかが、「自由にのびのび」に繋がると思うんですけど、そのためにはやっぱり、いきなり同年代の子に殴りかかったりしないとか、社会性を身につけさせないと、詰んじゃうと思うんですよね。
そういう意味では、「非コミュ」だけは、唯一親としては直さないといけない特性なのかなーって思います。

はい、ながーい前置き終了。
で、ゲームなんですけど、そもそもゲームがどんなもんなのかをわからないまま、というか、ゲームをやったこともないのに、幼児にゲーム与えるっていうのが、僕は違う気がしました。
まー、うちの親もゲームしなくて、ゲーム禁止されてたんですが、従兄弟が持ってたんですね。多分、素直に買ってもらっていたら、ここまでハマらなかったと思います。小3ときに、従兄弟が譲ってくれることになってヒャッハーしましたが、まー10歳程度が自我の萌芽らしいので、結果妥当だったのかもしれませんねー。
子供に押し切られて買うにしても、それが興味ないとしても「やってみる」ことは、とても重要だと思うんですよね。やらないと、子供がゲームの話してもわからなくないですか? ディスコミュニケーションですよ?

ゲームにまつわる云々としては、他でもたくさん言われてるけども、
・前述の通り、躾、作法を身につけたうえでのゲームでしょ? TPOを守るだとか、時間を決めるとかは当たり前じゃない? ごはん中にやらないとかそういうの
・そもそも何かに役立てるためにやるものではない。というか、世の中のものは大概役立てようとすれば役立つし、その気がなければどんなありがたい本の内容も忘れる
・世界の国の名前を全部覚えるのと、ポケモンの名前全部覚えるのでは、後者の方が難しいし、両方とも大して役に立たないが、記憶力は鍛えられるかもね
・例えば運動部に所属して結果が残せなかったとして、その時間を無駄と言い切るのか? とか、格ゲーでチャンプになる人をどう思うとかあると思う
・ゲームは一人でやるものとは限らないし、一人でやるものだとしても仲間との話題になる可能性はある
・知識に寄与するゲームもあった。信長とか、桃鉄とかは言わずもがなだけど。勿論、勉強のためにゲームをやった覚えはない
・ゲームに使われている元ネタというところに注目すると、格段に世界が広がる。これは、テレビとか映画の見方みたいなところにも言えるけど(だからテレビを見ることは悪いことじゃないと思う)
・作る側の方に意識がいくこともある。ツクール系とかやってみて、バランス感覚の難しさを体感するとかある
・少なくとも、「ゲームの世界がある」という体験は、やり続けるかどうかは別としてあっていいと思う
・年齢に相応しいゲームというものはある。そのための対象年齢設定だし、そこを意識しないで与えるとかは違うと思う
・ゲームはベビーシッターではない
スマホとかiPadとか渡したら、結局それゲーム渡したのと変わらないよ?
・「はいゲームやめて」って言うけど、パチンコやってて確変ひいたときに、「あ、約束の時間だ!」って止められる? 電話して「遅れる」って言っちゃうよね? その理解もしとこう
・ゲームばっかりって、ゲームよりエキサイティングな体験を他に提供できていないだけなんじゃないの?
・僕は映像作品と同じように、総合芸術的な視点で見てますよ
アナログゲームもあるので、そっちもやったらいいんじゃないの?

こんな感じ?
やってみた結果生理的に受け付けないから、自分の子供にはやらせたくないってのは、それはそれで一つの答えではある。だけども、結局それに触れる機会があることとかは、もちろん考慮に入れなくてはいけないことだと思う。自分がどうしても理解できないなら、理解できる人に講釈を頼むって手もあるしね。
生理的に受け付けなかったとしても、それを楽しむ人、そこに携わる人への配慮はあってもいいと思う。それができないならば、教育としては不十分としか言いようがない。「有意義な時間の使い方について、考えてみようか」で十分だと思う。