ユキの降る街
ブーツに踵をねじ込むとき、膝に鈍痛が走った。
来る。
予感、というより確信だった。
かといって何を備えられるわけでもないのだが。
俺はハンチングを深く被り直し、鈍色の街へと滑りだす。
何かに耐えるように静まり返った通りの静寂を、コツコツと靴音だけが破っていく。
似た風景。
一面の雲。
時間が止まってしまったかのような停滞感。
その寂寞と自由の妄想は、やがて車の走行音にかき消された。
きっとあの車もすぐに足止めをくらうだろう。同情する。
空を見上げた。
やはりな。
駅までもつだろう、は甘かったようで、そいつはフワリと肩へ舞い降りた。
「どこにいくの?」
あどけない小さな顔が、俺を覗き込む。
「おまえらの降らない場所だ」
答えている間にもそいつらは次々と降ってくる。路駐のワーゲンビートルに、ベランダの小さなプランタンに、そして俺の肩に。
何が面白いのか、そいつらは俺の言葉にクルクル笑った。
「どこでも降るよ。女の子は降るよ」
まったく、異常気象にも程がある。こんなことならちゃんとゴミを分別しておくんだった。
「おまえらこそどこから来て、どこへ行くんだ?」
そいつらはまたクルクル笑って、「哲学的ぃ」などと囃しながら、いつも通りの答えを返す。
「秘密ー」
ご丁寧に口の前に人差し指まで立てて。
なにが秘密だ。
最初こそあいつらに騒いだ世間も今じゃすっかり慣れてしまい、もはや誰も気にとめない。
大概のヤツはあいつらに何を話しかけられようが「はいはい」と聞き流す。
適応能力が高いのか、あるいは鈍感なのか。
地下鉄の階段にたどり着くまでには、かなりの時間と労力を要した。
踏まないように歩くのも一苦労だが、道中、「好きな人はいるの?」だの、「昨日のテレビ何見た?」だのくだらない質問攻めに遭っていたからだ。逐一答えるだけでげんなりだ。
「ここまでだな」
身体に纏わりついたそいつらを拾い集めて地上に降ろすと、文字通り肩の荷が下りた気がした。
軽く回すだけで肩がバキバキ鳴る。
「じゃあな」
風が吹き上げた。
電車が着いたのだろうか。
俺は深く暗い階段を下っていく。
地下鉄はこんな日でも遅れることなく走る。
車両には俺と、窓ガラスに頭をぶつけながら眠る老人しかいない。
定期的な車両の揺れは、眠りの世界に引きずり込もうと、疲れた俺の足首を引っ張る。
このまま眠気に身を任せるのもいいだろう。
脹脛にぬるい風があたり、次第に力が抜けていく。
瞳を閉じた瞬間、近くに誰かの寝息を感じた。
肩だ。
どうやら一人降ろし忘れたらしい。
「無賃乗車だぞ」
無賃乗人なのかもしれない。
起こすつもりはなかったのだが、彼女は起き上がり、眼を擦りながら大きくノビをした。
「おはよう」
「おはよう」
覚醒しきっていないのだろう。焦点が合っていない。
俺は黙って、黒い地下鉄の窓に映る彼女を見ている。
彼女はキョロキョロと辺りを見回し、仲間がいないことを確認すると、不安げな顔で俺を見上げた。
「なんだ?」
「みんなは?」
面倒なことになったなと思った。
「悪いな、お前だけ下ろし忘れた」
「ふーん」
強がり。
が、お互いどうすることもできない。
地下鉄は走り続ける。
「お前、名前は?」
「秘密」
「そうか」
会話終了。
たくさんいるときにはあれだけ騒がしかった彼女だが、それだけ動揺しているということか。
気まずい。とても。
「なら、名前をつけてやる」
「……」
シカトか。
半ばムキになって続ける。
「そうだな……ユキ、とかどうだ?」
この電車はどこ行きなのだろう。
「ユ……キ……」
彼女は少し驚いた顔で瞬きすると、確かめるようにその名を呟いた。
目を覚ましたのは、老人が下車するときだった。
車両に二人きりの妙な連帯感のせいだろうか、降り際に軽く会釈された。俺も黙って頷いた。
寝ていた時間は数分、いや、十数分というところか。
肩にとまっていたはずの“ユキ”を探したが見当たらない。
踏みつぶしてはいないかとシートや足元を確認したが、その気配もなかった。
あの爺さんと降りたんだろう。
そう思うことにして、俺は俺の駅で降りた。
異常気象がおさまったのはその翌日からだった。
もうあいつらを踏みつぶさないように歩いたりしなくていいし、うざったい質問攻めにも遭わない。世は、全てこともなく。
その代りに、白くて冷たいものが空から降るようになった。
気象庁はそれを「雪」と名付けた。
世間はまたも騒いだが、数日経つとその変化に順応し、やがて興味を失った。
街は鈍色から銀色へと変わった。
冷たいものが敷き詰められているのに、不思議と暖かみを感じる。
矛盾。
平穏を望んでいたのに、今は何かもの足りなく感じるような。
通りの雪は踏み固められ凍結していた。
かつて踏みつぶさないように歩いた路面を、今は転ばないように歩いている。
溝の刻まれないレザーソールブーツは滑りやすい。
「っ!」
臀部に鈍い痛み。
だが痛みよりも、誰かに見られることが今は辛い。
振り返ると、女の子が笑いをこらえ、身を震わせている。
慌てて立ち上が……れなかった。
二度転んだ俺を見て、彼女はクルクルと笑った。
なんてザマだ。
急ぎその場を離れようとするが、なかなか早く進めない。クソ。
「どこにいくの?」
女の子だ。
易々と追いつかれる。レザーソールめ!
「おまえのいない場所だ」
「どこでもついて来たら? 私が来たら?」
予感、というより確信だった。
まったく、非現実的にも程がある。
こんなことならちゃんとセラミックソールを選んでおくんだった。
「おまえはどこから来て、どこへ行くんだ?」
「空から来て、あなたのもとへ」
ユキは言った。
(終)